筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)
――先日始まった大阪・関西万博は、開催の経緯についての批判も多かったが、開催後も、SNS上では、連日の批判が止まない。そもそも、万博とはどのようなものなのか、どうしてこのような問題が起こるのだろうか。
私は、日々遭遇する問題事象について、その問題には留まらない、「ここには尽きない問題」を、できるだけ考えてみるようにしている。それは、自分自身が取り組むテーマについて、現状はいかなるものかという「起点」と、向かうべき方向としての「終点」という座標を、再確認する行為だと思っているからだ。そしてそれは、同時に、「自分であれば…」と、自分自身の生き方を確かめる行為でもあるし、その生き方が「ここには尽きない問題」を、感受し、考えさせるのかもしれない。
はじめに
SNSのX(旧ツイッター)上では、現在開催中の大阪・関西万博への批判が大炎上している。気にかけず見逃せばそれまでなのだが、私は、喧伝される問題には留まらない、「ここには尽きない問題」を考えたい。
世界で最初の万国博覧会(以下、万博)は、英国・ロンドンで1851年に開催された。その目的は、産業革命により、「世界の工場」として発展したイギリスの技術革新や工業力を世界に示し、世界市場を形成していくことにあったと言われる。それは、産業資本主義の世界的拡がりの幕開けとなった。
以降、万博は、国際的な文化交流や相互理解、環境問題含めた世界的課題の解決などが、理念や目的として謳われるようになる。しかし、参加国・企業が、万博を経済的な契機とするという根本は、変わっていないのだろう。そして、資本主義が、人類に危機をもたらす時代にあっても、それは変わらない。
日本万国博覧会と岡本太郎
1970年に開催された日本万国博覧会のテーマは、「人類の進歩と調和」だった。
社会学者の大澤真幸が提起した時代区分で言えば、それは「虚構の時代」の入り口であった。大澤は、敗戦後の復興から高度経済成長までを、「理想の時代」(1945~1970)とした。この「理想の時代」とは、望ましい結果に対する予期・期待が、現実になりそうだという直感から、不確実(な事態)に飛び込む勇気が得られ、それが実現し、好循環を生むのだという。
次の「虚構の時代」(1970~1995)とは、掲げてきた理想が、現実の矛盾に苛まれて限界を露呈し、理想実現を想起させた経済成長も陰り、実質は「不可能性の時代」(後述)にあるのに、時代の精神がその問題を自覚していないという意味で「虚構」とされた。(*1)
この万博の「人類の進歩と調和」というテーマは、文明の発展や技術の進歩が、人類にもたらす恩恵に留まらず、その大きな影響を及ぼす自然や人間性に対して、調和のある未来を目指すという理念であった。ただし、それは、これまでの経済発展による矛盾を根本から正すものではなく、(更なる経済成長を求めるという意味で)虚構性(前述)を象徴しているかのように、私は思う。
芸術家の岡本太郎は、このテーマに対し、「太陽の塔」を制作し、根本的な問題を提起した。岡本の「太陽の塔」には、「過去・現在・未来」の3つの顔が描かれている。背面の黒い太陽は「過去」であり、資本主義による技術革新が、人類にもたらした悲劇の悲惨さを象徴している。そして、表面の太陽は「現在」を、最上部の黄金の面は「未来」を見据えているのだという。塔の内部には、人類の進化を表す「生命の樹」が組み込まれた。
この全体で表現された問題提起は、現代文明ないし資本主義経済社会が、人類にもたらす深刻な問題に目を向けさせること、そしてそれに留まらず、人類の「いのち」とそのエネルギーの壮大さという根源から、(他もありうるという意味で)それを相対化して見直し、「いのち」の解放による未来という希望を見据えているのだと言われる。(*2)
岡本は、芸術家であるとともに文化人類学にも造詣が深かった。この問題提起は、彼が、人間の原初的な生き方に、人間の「いのち」の在りようを感受していたがゆえのものだったと、私は考える。
1970年の大阪万博は、岡本が、「ここには尽きない問題」として考えて為した、野心的な問題提起を受け入れたことで、その開催の意義を実質として打ち立てられたのかもしれない。
大阪・関西万博の空疎さ
そして、2025年「日本国際博覧会」、通称「大阪・関西万博」(以下、万博)が、開催された。万博のテーマは、「いのち輝く未来社会のデザイン」だそうだ。私には、この万博を知ろうという動機も関心も無いのだから、無責任なことは言えないのだが、その開催意義なり価値が、一向に伝わってこない。流れてくる情報は、物見遊山のオンパレードだ。
大澤の時代区分で言えば、現在は「不可能性の時代」(1995~現在)にある。「不可能性の時代」とは、「虚構の時代」の虚構が、バブル崩壊とともに消え去り、人びとが、すべてが不可能であると思えて、不確実性への挑戦を委縮し、その悪循環をきたすのだとする。
またそれは、資本主義経済に、民主主義と福祉国家を内在できた例外的な経済成長による資本蓄積の時代の終焉を意味していた。ゆえに、資本主義は、新自由主義の名のもとに、この体制を堀起して切り崩し、利潤獲得経路を再構築していく。この時代にあって、人びとは、生活不安や貧困、社会的分断という苦悩に苛まれている。
そして、人びとは、生きる苦悩を霧散霧消させ、不満や不安を溜飲忘我させてきた経済成長という神話を失った。だが、にもかかわらず、何かしら虚構を求め、精神が浮浪する時代となった。
2025年大阪・関西万博には、1970年万博における岡本の近現代の文明への鋭い問題提起に対するオマージュも、この「不可能性の時代」という問題の深い認識と、次代に向けた人間の生き方に対する問題提起も、ことごとく無い。「いのち輝く未来社会のデザイン」というテーマに、虚構の経済効果を装うだけなのだ。
1970年から2025年、この間、日本社会は、なにか不可逆的に劣化してきているように思えるのは、私だけだろうか。
「鵺(ぬえ)」のような万博
この万博開催の裏には、IR(統合型リゾート)を美名とする、日本社会にとって害悪でしかない賭博場の建設がある。ここには、日本維新の会と自民党の強い利権動機がある。この利権が絡む賭博場の前さばきに、膨大な公金を支出するために、万博は企図された。開催決定に至る経緯は、東京五輪開催のような奇想という目眩ましを政治的手段としてきた、故安倍元総理と維新幹部との私的な談合によるのだから、さらに呆れかえる。
この公金に群がる企業、その他もろもろの利害関係者が、クラスタ―を形成する。彼らは、もっともらしい御託を並べ、外見を繕い、公益を害するという問題の本質を隠ぺいし、その内部では個々個別の利害動機を旨として跋扈するのである。
それは、顔も体躯も四肢もバラバラで、中身もよくわからない、つまり、理念も目的もいい加減で、責任の主体の曖昧模糊とした、妖怪「鵺」の様相を呈することになる。「また、現れたか!」と、私は言いたくなる。
悲劇は、その忌まわしい現実を知りつつ、万博の開催理念に共感することもなく、止むを得ざる仕事として追随せざるを得ない労働者の存在だ。自らの利害動機のみで動く「虚構の人」の傘下の組織は、徹底的に腐敗し壊死する。
この万博は、開催以前から、SNS界隈では、様々な問題を露呈させ、多くの批判を被っている。また、開催以降も運営の問題が炎上して止まない。万博協会は、問題の本質を隠ぺいする「鵺」のような存在であるがゆえに、民主的な運営であるはずもなく、万博を支えるべく働く人の心からの共感のもとの本気も得られ難く、問題の多発は、推して知るべしだと、私は解している。
ついでだが、連合会長の芳野氏は、この万博協会の理事だそうだ。このような事態に、働く者を代表する立場に在る理事として、彼女は何を語ったのだろうか、気軽に同意して名前を連ねただけなのだろうか、聞いてみたいものだ。
「ここには尽きない問題」を考えること
ここまで述べてきたように、問題事象には、それ自体に留まらない「ここには尽きない問題」が所在する。そして、私たちは、日々、様々な問題事象に遭遇するのだが、見過ごせばそれで終わる。しかし、私は、それを考えてみるようにしている。それは、自分自身が取り組むテーマについて、現状はいかなるものかという「起点」と、向かうべき方向としての「終点」という座標を、再確認する行為だと思っているからである。
同時に、「自分であれば…」と、自分自身の生き方を確かめる行為でもあるし、その生き方が「ここには尽きない問題」を、感受し考えさせ続けるのだと考えている。
<参考文献・資料>
*1『不可能性の時代』大澤真幸 岩波書店 2008年
*2『岡本太郎、現代を撃つ~“双子の傑作に秘めた企み』NHK 2022年10月14日
放送の再放送を視聴して、要点を整理した。