筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
わたしは、見世物小屋がもともと好みではない。関西・大阪万博について、批判を書いても意味がないと考えていた。しかし、ささやかな提言くらいはしておきたい。
55年前、1970年の大阪万博は、日本が本格的に世界に認められるかどうかの分岐点でもあったから、それなりに開催する意味があった。ただし、今度も前回並みの「おつむ」状態ではいかにも嘆かわしい。
開会当日の新聞報道を見てもグズグズしたものが多い。
わたしの違和感は、メインテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」が、会場での展示、企画に生きているのか、どうかにある。
ウクライナ、パレスチナの惨状が連日、世界中に報道されている。加えて、トランプがばらまく大混乱もある。いのちが輝いてはいないのだ。
そこで万博においては、いのち輝く未来社会のデザインにふさわしい提案ができるだろうか。それと、これとは別だというのでは芸がなさすぎる。
日本は、敗戦後から国連中心主義で、平和な世界を希求してやってきたはずである。しかも、日本国憲法はその文脈において、どこに出しても恥ずかしくない。会期は半年ある。世界の耳目が集まっているはずだから、何か、せめて、2025年の世界的状況に対して、万博の名において一石投じたらいかがだろうか。
ことは、政治的な問題ではない。人類の生き方に対する哲学的提案である。