週刊RO通信

名音楽監督の狙いがわかった

NO.1610

 昨日は、東京交響楽団のオペラハウスシリーズ、今年初めての公演であった。この1月に同楽団第一代音楽監督の秋山和慶氏(1941~2025)が逝去された。わたしが何もわからないのに20年以上、クラシック音楽を聴き続けたが、その間、最初からなじみ深かったのが秋山さんである。

 第二代監督がユペール・スダーン氏(1946生)、2014年9月から第三代監督ジョナサン・ノット氏(1962生)で、今回が監督の最後のシーズンになる。いちばんたくさんの指揮で聴かせてもらった。ノット氏の指揮は、今年9月にもあるが、少し寂しい気持ちを抱えて会場へ向かった。ノット氏は華麗で心情溢れる指揮スタイルである。いつも気持ちを揺さぶられて心地よい。じっくり聞かせてもらおう。

 最初の曲は、ラッヘンマン(1935生)『マイ・メロディーズ 8本のホルンと管弦楽のために』(2016~2018オリジナル)である。開演前、急いでパンフレットに目を通す。どうやら現代音楽の作曲家らしい。よくわからん。クラシックも得意ではないが、現代音楽は根本的に苦手である。

 ノット氏は、レパートリーが非常に広いし、現代音楽も積極的に採用する。ただし、いままで長い時間のものは聞いた記憶がない。

 苦手意識が先行したせいもあり、はじめから最後まで、音楽を聴いている気分が高揚しない。素直に音を受け入れるのがよいとは思うのだが。

 最後まで乗れず、拍手に力が入らない。会場の拍手は格別いつもより少なくもなく、おまけに背後の席に「通」がいるらしく、熱狂的盛大に拍手する。置いてけぼり食らったみたいで、わたしの気分は下り坂だ。聞けば、同行のYさんは、「全身を委ねて、音が身体全体にしみこむようだった」と好評である。ますます、落ち込む。

 休憩後は、マーラー(1860~1911)の『子供の魔法の角笛より』で、バリトンのロビン・アダムスと楽団メンバーの呼吸がぴったり合って、歌詞は終わってからゆっくり読んだが、いろいろ示唆に富んだものであった。マーラーはロマン派最後の世代で、好きな作曲家の一人である。なんとか落ち込んだ気分を回復して帰宅した。

 指揮者は、なぜこのようなプログラムを組んだのか、ゆっくりパンフレットを読んだり、少し調べたりして考えた。

 ラッヘンマンの作品は、日本国内での演奏は少ない。その嚆矢ともいうべきは秋山さんであった。2000年、ラッヘンマンのオペラ『マッチ売りの少女』(初演1997)のオーケストラ指揮が秋山さんであった。

 解説によると、ラッヘンマンは、楽器のいろいろな音を引き出して伝統的な音の聴き方との差異を前景化するという。『マイ・メロディーズ』は、ラッヘンマン自身が自分の旋律意識への批判だというのだから、旋律音楽に慣れ切ったわたしがついて行けないのは自明の理であった。純粋な聴力を要す。

 実は、わたしは、演奏を聴きながら、まるでトランプ的轟音じゃないかと思った。トランプの場合は、わたしが全面的に聞きたくない騒音・雑音の類である。『マイ・メロディーズ』は、わからなかったにしても、耳を塞ごうとはしなかった。Yさんが言うように、音がいつしか全身にしみこんだようだ。

 マーラー『子供の魔法の角笛より』は、歌詞に、知性への貢献が謳われている。そして、パドヴァのアントニウスが説教に来ると教会はもぬけの殻なので、仕方なく彼は魚相手に説教を始める。いろんな魚が、「こんな楽しい説教を聞いたことがない」と喜ぶのだが、説教が終わると魚どもはすべて忘れて何一つ変わらない。という、痛烈極まる皮肉が登場する。

 音楽監督ノットはラストシーズンに当たって、次のように記した。

 ――指揮するすべての公演を「song(歌)」というコンセプトでプログラムしました。私は、すべての感情を歌に乗せ、自然界のあらゆる情景を歌い上げてきました。第二次世界大戦から80年の節目です。われわれが忘れてならないことは、つねに、生きるとはどういう意味を持つのか。平和とは何か。ということを自問自答し続けることでもあると思います。――

 公演が終わって24時間ほど過ぎて、ノット氏の狙いがなんとか理解できたような気がしてきた。噪音の向こうを見なくては。