筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
フジテレビ第三者委員会の報告書に、「集団浅慮」という言葉があった。経営陣が揃って思慮が浅かったという。浅慮と書けば、それなりに意味があるみたいだが、つまり、大事なことを考えていなかった。浅薄のほうが言葉としとはしっくりするが。
それはともかくとして、経営陣が揃ってしっかり考えないのに、全体がしっかり考えているだろうか。しかも、トップダウンが強かったというのだから、すなわち社内全体、組織浅慮になりやすい。
なぜなら、トップダウンの中心の周りには茶坊主ばかりが集まる。茶坊主上司の周りも茶坊主部下が集まるというわけで、非常に危ない組織である。
たまたま同社は目下袋叩きの体である。しかし、それでは、世間の会社は「集団深慮」なのだろうか。ちょっと玉突き的に考えてみた。
もちろん、フジテレビと同じことが起こっているというのではない。会社組織としての体質が、ものごとをよく考えているかどうかである。
60年前、わたしはIBMが「THINK」を社是にしていると知って感心した。おそらく、わたしと同世代の人であれば、なるほどと思ったに違いない。
わたしの会社も他社も、それなりに一所懸命ものづくりに励んでいた。しかし、考えるという言葉を会社のアイデンティティに据えているのは非常に新鮮に感じられた。
なにしろ、IBMの大型コンピューターを追いかけて四苦八苦していた。IBMコンパチプロ(compatible)路線と呼んでいた。要するに、IBMのコンピューターになんとか近づこうとしていたわけだ。
そして追いつこうともたもたしているうちに、突如としてダウンサイジングの段階に突入した。大慌てしたのは、いまも忘れられない。
だれもが考えているつもりだった。しかし、全然視野の外へと、世界の技術は足を踏み入れた。日本の会社は、まさに集団浅慮であった。
それからずいぶん時間が過ぎた。
1990年代からこんにちまで、日本企業はパッとしない。大企業はたくさんの内部留保を持つ。日本的バブル崩壊以後、内部留保強化に努めたのであるが、なんのために蓄えたのか。会社の成長のためである。
ところが、ただいまの日本企業のパワーといえば、世界の株式時価総額上位50社中に、トヨタしか入っていない。1989年には、日本企業が32社占めていたのである。
資本を蓄積しても、会社が成長しない。成長するために、何か思案しているのだろうか? ランキングなんかどうでもよいが、日本の産業界のパワーを振り返ってみる意味はあろう。
ひょっとすると、サラリーマン官僚組織を登ってきた経営者は、自分の任期中は安全第一、とにかく慎重にやろうと考えているだけではないのか。
慎重にやる。深慮することは大事だ。しかし、「成長するにはどうするか」というテーマを本気で考えているようにはとても思えない。テーマを設定しなければ、いかに考える習慣があろうとも、アイデアは出てこない。
フジテレビのような集団浅慮に基づく? 行動がないのはよいとしても、発展する会社を作っていこうという思慮がないのであれば、会社の将来はじり貧である。
フジテレビの第三者委員会は、そんなことを考えたのではないだろうが、「集団浅慮」という言葉をフジテレビ専属にしないほうがいい、とわたしは思う。