論 考

労働者教育から組織を考える

筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)

――労働者教育について、問題意識を感じる契機があった。

 その問題意識の一つは、敗戦後から今日に至る労働者教育が、思想的に偏向し、学ぶ人びとの思考の自由を奪ってはいないか。二つ目に、労働組合に、運動論が無いために、教育における学習対象が形骸化している。三つ目は、学習方法が固定化し、費用と契機の浪費となり、真に効果を生んでいない。以上の三点である。

 これは、誤解を恐れず言い切れば、労働者教育の機関ないし労働組合が、外形的に組織を維持することのみで、存在論的な実質を備えていると観念しているからにほかならない。

 ただ本論は、私自身の学びに、まだ多くの余地を残した論考であることをお断りしておく。

思想的偏向教育 

 一つは、思想的偏向教育となってはいないかという問題だ。

 敗戦後の混乱期における労働運動は、思想的政治的対立に見舞われた。そのようななか、私が帰属した同盟系の労働組合は、「自由にして民主的な労働運動」「民主社会主義」を標榜し、社会的混乱をもたらす勢力に、対抗理論としてそれを普及し、対抗勢力から組織を防衛し、経済社会の正常化に腐心したという、歴史的経過があった。

 労働運動に対する普遍的な打ち出しは否定しがたいし、対抗の必要性が、その反動としての思想と運動を生み出すことも、そうだと思う。問題は、金科玉条としてきた思想に対しては、これからも、そして、いつまでもそうなのかという疑問が払拭できない。

 「民主社会主義」は、対抗関係のなかで、対抗する思想の問題を、史上例外的な敗戦後の経済成長という環境を背景に、漸進的社会改良という路線で相殺させたものだと、私は解している。ゆえに、この時代背景において、その思想と運動は、勢力を拡大し、経済運営の正常化に寄与した。一方、政財官の保守連合に取り込まれ、その存在を希薄化させてしまったという問題もあった。

 そこで、この一連の歴史的経過は、総括されなければならないだろう。時代の移り変わりとともに、対抗勢力が脆弱化したことで、その反動としての思想や運動の存在意義や価値が、人びとの意識の中で形骸化している。

 その現実をどう捉えるべきだろうか。この間の社会変容は、逆に問題とされた思想の本質を掘り起こし、次代社会の構想に向けた、新たな意味付けを必要としているだろう。

 思想は、それを普及していく立場の人の信念となる。そこまでは良いのだが、思想を普及することで、その立場が社会的ないし経済的地歩となり、それに連なる追随者の集団が出来上がり、固定化し、さらに空洞化した党派主義となってく問題を孕む。社会変容があっても、依然として説明の理路(すじみち)が変わらないのは、党派主義が状況不適応をきたしているのではないか。

 教育とは、ある意味で権力行使でもある。ゆえに、なぜそうなのかの説明説得の義務を負う。しかし、党派性のなかで行われる思想教育は、その権力により、人びとの思考の自由を妨げ、人間自身の形成を阻害してはいないのかと私は危惧する。

 またそれは大きくいえば、人間社会がどう在るべきかの課題に近づくための理念や思想の構築を阻害する要因となるのではないだろうか。

網羅的体系的・雛形的外形的学習

 二つ目に、カリキュラムが、「網羅的体系的」なものであることに問題を感じている。加えて、雛形的な外形を整えて、組織維持するための学びが主流を成していることについても、問題を感じている。組織体制が整備されればされるほど、学習対象が、網羅的体系的に整備される。これは私も経験してきたし、外形的学習も欠かせないものであることも、経験上理解はする。

 しかし、これだけ、様々な局面で社会的危機が喧伝される時代にあっては、労働組合は、社会改革の主体という本領を発揮する存在でなければならない。そのためには、労働組合の運動論を創造し、労働組合における学びは、「戦略的集中的」な体系へと転換する必要があるのではないだろうか。

 現状組織を維持しつつも、組織維持のみに留まるのではなく、変化する状況に対して働きかける主体を育てねばならない。主体が状況に働きかける意識を失ってしまうと、状況に漂い、流されるだけになることを忘れてはなるまい。

講義受講型

 三つ目は、これは揺るがない事実だと思っている。多少の運営の工夫があるとしても、学習形態・方法が、堅固に「講義受講型」であることだ。

 学習動機の醸成が戦略的になされていない。主催者が根本的には組織ニーズ(都合)を押し付ける、(受講者は)ただ、受け入れるだけの受講姿勢となっている。組織としての運動論が無いための問題だろう。運動論的に言えば、学ぶ人の学習動機の醸成が無ければ、学習効果は期待できない。

 簡単な構図で説明する。教育の主催者Aと受講者Bにおいて、教育はA⇒Bであると考えるが、一方的に教えるだけではなく、B⇒Aのフィードバックが必要なのである。それによって、教育のレベルが向上する。社会(組織)発展における教育の意義は、「共育」を必要とする。受講者から学ぶ姿勢のない主催者は教育者たりえないのである。

 つまり、運動論をもって、その働きかけにより運動への関与動機にもとづく学習の動機を戦略的に醸成し、その実践の契機を生きた学びの機会とし、その契機に、理解や解釈の不足を補うという形が、戦略的に考えられるのではないだろうか。

 これが、運動論にもとづいた、「参加関与による戦略的な学習動機の醸成」「実践的学びの契機創造」という転換のすすめである。

外形的存在と存在論的存在

 組織は、社会的に外形的条件を整えることで、社会的な存在となる。しかし、存在論的な実質を備えなければ、真に、社会に存在する意義なり価値を失う。つまり、張り子のトラでは意味がない。

 一般的に、組織は、その存在論的な組織であることを装う。それは、基本理念や使命ないしビジョン・目標等としては表現される。しかし、この類の言葉は、抽象性が高い。ゆえに、組織を構成する人びとは、自らの言動を、それぞれに、これらのことに適うものとして合理化し、観念してしまい、解っているつもり、やっているつもりとするのだが、存在論的には適合していないし、相反にすらなってしまう。

 それでも、社会的外形的には、何の問題もないように見える。また、そのようなことが仕事だと、各人が観念してしまえば、組織的な齟齬も発現しないであろう。その結果、組織は、存在論的な実質を空洞化させ、存在論的な意味での発展や持続可能性を閉ざしていく。また、組織を構成する人びとの人間的成長もあまり期待できない。

 またこの問題は、その組織だけに留まらず、ステイクホルダーに対しても、存在論的な意味で、社会的に負の影響を及ぼすことになる。ゆえに、この問題は深刻なのである。

さいごに

 組織における現状保守は、体制という権力となる。この権力を行使する側の人は、そうするならば、「なぜ、何のために」を説明し、構成員ないしステイクホルダーに納得してもらう必要がある。また、そのことが論理的に立たないのであれば、改めることを厭わずに責任を果たすべきである。

 このような、民主的なやり取りが、組織の発展にとっていかに大事か、日々身に染みる思いである。