筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
西新宿の病院で検査診察を終えて新宿駅へ、あまりにも日差しが温かく、風も吹かない。いつもは住友ビルから地下道へ入るのだが、日向ぼっこしつつ高層ビル街を歩いた。
太陽がてっぺんにある。日なたの歩道を選んで歩いていると、道路横の高さ1メートルほどの生垣に花がいくつか咲いている。直径5センチくらいのバラである。薄いピンクだ。よく見れば、点々と花が咲いている。
寒い冬のきついビル風を耐えてきたのだから感心する。好き勝手に乱立しているような建物群に自然の味わい、というよりも違和感が先立った。花びらが傷ついていたり、汚れているのでもあるが、ビル街のアクセントにしてはあまりにも片隅に追いやられているからだ。
パリのエッフェル塔が完成したのは1889年、パリ万博の目玉として建設された。鉄塔などに不慣れの時代、不細工なものを作るなと猛反対が起こった。モーパッサン(1850~1893)は大反対で、そのくせ、エッフェル塔1階のレストランにはしばしば通った。その理由は、「ここなら塔を見なくてすむ」というのである。
鉄やコンクリートの建物の美が認められたのは20世紀に入ってからだ。20世紀初め、印象派からフォービズム、キャビズム、抽象派、ダダイズム、シュルレアリズムなどなど、新しい芸術の波が起こったのも関係するだろう。
そんな中で、「機械はバラのように美しい」と論評する人が出た。未来派宣言をしたマリネッティ(1876~1944)は、「機械こそ美しい」と喝破した。
芸術は、ある願望を充足するために創造される。願望が充足したとされる時、その作品は美しい。(というのであるが)妍を競うかのごとくビルたちを眺めていて、わたしはとても「建物こそ美しい」という気分にはならない。
その付け足しにされたみたいなバラたちも、なんだか気の毒だ。春めく日差しに誘われてのちょっとした散歩だが、単純に足取り軽くとはならなかった。
いずれにせよ、「美」なるものは、簡単に手に入れられない。
