筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
東日本大震災が発生したとき、現地でお手伝いしたいと思った。たまたま労働組合がチームを組んで現地支援活動をすると聞いて、旧知の組合にお願いし、「闇」でメンバーに加えてもらった。
新宿の万年屋へ行って装備を用意したが、温かそうなジャンパーの作業着があり、しかも3千円ちょっとなので買った。
貸し切りバスで、岩手県宮古市へ入ったのは4月11日、災害発生からちょうど1か月目であった。だいぶガレキの片付けが進んでいたものの、まだまだ被災の爪痕は悲惨で、息を詰めた。
わたしが入れてもらったチームは5人、みなさん若い盛りだから、突っ張ってもわが年寄りぶりは隠せない。仕方がない。活動は、港近くのアパートの泥出し、掃除に精出した。
当時は、被災された方に声をかけるのも憚られた。口先のお見舞いなんかしないほうがマシだ。「がんばろう!日本」の文字を見るだけでも癪に障った。
作業2日目のお昼下がり、休憩して一服やった。応援を受け入れたのは女性Mさんであったが、まだ一度も会話していなかった。
われわれの様子をそれとなく見ておられたMさんが、突然私に向かって、「あなたは何者ですか?」と話しかけられた。とっさに「怪しいものではありません」と、まったく妙な返事をしたものだ。
Mさんが噴出して笑い、「あ、一か月ぶりに笑ったわ」と言われた。この言葉はとても重く聞こえた。しかし、幸い、それがきっかけで会話が弾んだ。
そういえば、仲間は組合の黄色のウインドブレーカーを着用しているのに、わたしは緑色のジャンパーで、だいぶ年が離れているのだから奇妙に思われたのだろう。しかも、パイプをくゆらしているわけで。
一週間の活動を終えて帰った翌日、キャンプで知り合いになった方から電話があった。ジャンパーを忘れてきた。ご親切に送ってくださった。
それから、たまたま要員不足で、一か月後の5月11日にも応援に入った。今度は、地元の高校生と仲良くなった。「おじさんのお仕事は何ですか?」と問われた。スコップの使い方を教えてあげたので、「土建屋だ」と答えた。
嘘をついてはいけないけれど、わが仕事などはなかなか説明しにくい。ジャンパーのポケットに入れていた空豆を二人で噛みながら、他愛もない会話を交わした。いま、彼は30歳超えているな。
今日の新聞社説は、いずれも「あれから14年」の見出しだ。午前3時、配達された新聞を読みながらメモを取っている。いつも着用しているのはジャンパーだ。そうか、14年付き合ってもらっている。頑丈で、相変わらず温かい。なんだか褞袍みたいになった。