NO.1605
1928年に締結されたパリ不戦条約は、人類社会における画期的な進歩を刻印した。それから約100年後の今をどうなんだろうか。
同条約は、「国際紛争解決のため戦争に訴えることを非」としたのである。
それまで、国際紛争を解決するための戦争、武力行使、武力による威圧は違法ではなかった。
もちろん、もっと以前から人々は、天変地異以上に戦争を嫌い、憎んだ。まことに人間らしく、健全な見識は早くから育っていたと思われる。だから、侵略目的の戦争は不当であるという意見はあった。
しかし、不当であるかどうかは、勝者が正義とみなされることによって決まった。いわば騎士道華やかな時代の考え方である。個人間において、意見が食い違い、いくら話しても決着がつかない。当事者が、お互いに手袋を投げる。「決闘だ!」というわけである。
お互いが自分の正義を信じて疑わない。仲裁する者がいない。あるいは、仲裁を断じて受け入れない。ならば正々堂々闘って決着をつけよう。あたかもアスリートによる競技のごとく、フェアプレー精神で戦うのだから、勝ったほうが正義の冠をいただく。
時代が進むにつれて、決闘は違法となった。勝利したほうが正義であるという、牧歌的(?)な理屈は通用しなくなる。まして、戦争は国と国との間でおこなう決闘である。利害の頂点に立つ王様同士が差しでチャンバラして雌雄を決するならまだしも、戦場に斃れるのは兵士(一般の人々)だ。
武力が発展して、破壊力が大きくなると、勝敗に関係なく、国土は荒廃し惨害は直接的戦闘だけには終わらない。ばかばかしい。
国を越えた貿易が発展する。貿易の発展は、個人間のみならず国家間の意思疎通も向上する。そうした歴史的流れを理解し、成長を遂げてきた人類の進歩の証が、パリ不戦条約に実ったのである。
正義をかざしたとしても、ほとんどは侵略戦争である。侵略戦争を推進した国家の指導者が、国際法廷で、平和に対する罪によって裁かれたのが、第二次世界大戦のドイツと日本であった。
パリ不戦条約によって、問題解決のために戦争に訴える正当性はなくなった。(ただし、国連憲章は、侵略された場合の個別的自衛権を認めている。)
たとえば、トランプをはじめ、「力による平和」という言葉が語られる。力にもいろいろある。経済の力、知恵の力、暴力を拒否する世論もある。しかし、力が軍事力に直結するのであれば、パリ不戦条約以前の考え方だ。
さて、トランプはウクライナ戦争を外交で解決するために乗り出した。トランプから見ると、ゼレンスキーのほうが和平に積極的でないとして、武器供与や情報の供与を停止する動きを起こした。本気で和平に取り組むのはだれしも大歓迎である。
ところでトランプは、侵略戦争を起こしたプーチンをどのように扱うのか。ロシアが武力占拠しているウクライナ領土をどうするのだろうか。
アメリカは、ロシアがウクライナを侵略しているという文言を否定する。それを前面に出せば、プーチンが和平交渉に乗らないという読みだろうが、もし、侵略戦争に目をつむり、ウクライナ領土の占拠を放置するのであれば、結局は戦争の勝者が正義だという、100年前に逆進である。
戦争の当事者といっても、ウクライナは侵略を防御しているだけである。侵略者と被害者を同列に扱って、和平でございますという理屈が正当化されるのであれば、――平和とは、力あるものが享受し、他にその恩恵を施す――という、弱肉強食を金メッキで塗り固めたものでしかない。何のことはない、世界はアウトローの秩序が支配していることになる。
ゼレンスキーが安全の保証を要求するが、至極当然である。230年前にカントは、「将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。平和とは敵意が終わることである」(『永遠平和のために』)と主張している。
和平が成立して再建の槌音がこだまする日が待ち遠しい。しかし、トランプとプーチンの談合が、本当に平和への一歩になるだろうか?