論 考

あるべきジャーナリスト

筆者 師岡武男(もろおか・たけお)

 ――(編集部)師岡武男さんが亡くなった。師岡さんは、1952年共同通信社に入社、社会部、経済部で記者、56年、レッドパージ後の新聞労連書記長に就任、「真実の報道で新聞を全国民のものに」の運動など推進された。その後、経済記者、70年代のドルショック・狂乱インフレ・石油ショック時代にはデスク、編集委員さらに論説委員等々で活躍された。

 本稿は2016年1月、『オンラインジャーナル・ライフビジョン』に寄稿されたものである。師岡さんは当時、国民生活改善に向いていない安倍的経済政策を批判し、昨今のジャーナリズム事情を憂い、ジャーナリズムは、今こそ「政府発表のポーター」から脱却せよと警鐘を鳴らしていた。少し長いが再度掲載する。

あるべきジャーナリズムについての考え方

 世の中の動きや事件について――その時々に時事問題として伝えたり論じたりする活動――をする人がジャーナリストである。

 制作品は、経済用語で言えば、第三次産業の中での「情報というサービス(役務)」の生産品である。産業分類では、出版・印刷は製造業であるが、ジャーナリズムは、特殊な『情報生産』の一分野だろう。学問、芸術なども同様である。

 「社会の動きや出来事について――今伝えるべきことを今伝える。今言うべきことを今言う――のがジャーナリズムの使命である」(新井直之・元共同通信記者)。「政府、団体、などの発表を伝えるだけの『発表ジャーナリズム』であってはならぬ」(原寿雄・元共同通信記者)。

 共同通信の仲間によるこの二つの指針はかなり一般化したが、僕は「国民のための記事(情報)を」を付け加えたい。――何を伝えるべきか、何を言うべきか――が示されないと、実際に活用できない無内容な指針になってしまうのではないかと考えるからである。

 註:「国民」は「ピープル」の言い替えとして使う。憲法の英訳にならった。

 「国民のための記事」として今伝え、論ずるべき事柄の選択は、別言すれば、民主主義という「価値観」によって選択された記事ということになるだろう。そもそも選択には価値観が不可欠だから、商業ジャーナリズム界で、重要な原則とされがちな「客観報道」「中立主義」とか「ニュースバリュー」論による選択基準とは、理論的に衝突する可能性がある。この問題は「真実の報道」についても同様であり、報道記事のあり方をめぐる大きな論点だ。

 選択論の決着は今でもついていないが、最低限はっきりしているのは、情報(5W1H等)の「客観的正確性」は常に必要だということだ。しかし商業ジャーナリズムの現状は、反民主的価値観丸出しや、不正確情報が横行している。

 共同通信の編集綱領(1958)は「国民が関心を持つ真実のニュースを編集し…正確敏速に配信する」と規定している。ここで言う真実とは、「客観的に正確な事実」を意味しているだろう。「国民が関心を持つ」は民主主義の原則確認と言える。

 僕のこのようなジャーナリズム論は、共同通信入社当時、戦後民主主義の残り火の中で沸き起こってきた、レッドパージ後のジャーナリズム再建運動の中で、形成されてきた。

 その運動とは「真実の報道」をメインスローガンとする『日本ジャーナリスト会議』(JCJ)の結成(55年創立、吉野源三郎議長)や新聞労連の「新聞研究集会」などだった。その中で共同通信は58年に、労使協議によって「編集綱領」を策定し「真実のニュース」を刻み込んだ。これは画期的なことだったと思う。

 時事問題についての情報には、実用的な通報(お知らせ)のほかに、人々に「考えてもらうために必要な情報」と言えるようなものがあるだろう。あるべきジャーナリズムとは、後者についての考え方のことである。原寿雄氏は「権力への監視役(ウォッチドッグ)」「社会正義」などをあげている。僕は「国民のための記事」「民主主義」という言葉で要約したが、原氏の意見をそのまま含めている。

 以上のジャーナリズム指針を、具体的に実行するのは容易なことではない。「今」を伝え、論じるという速報性がまず大変だ。多大の努力と才能が必要である。戦後ジャーナリズムの実績を検分すれば、それは明らかだ。

 とりわけ民主主義という点では、現在、日本のジャーナリズムは全体として(特に、「雇用ジャーナリスト」において)衰退しつつあるのではないか。

 註:「雇用ジャーナリスト」とは、情報産業に雇用されているジャーナリストを指している。原寿雄氏の言う「企業ジャーナリスト」(『ジャーナリズムの可能性』岩波新書)と同様の主旨を言い替えたものであり、厳密な分類ではない。

 速報性に関連して、商業ジャーナリズムには、「抜いた、抜かれた」の特ダネ競争がつきもので、これも厄介な問題点である。例えば、明日公表される大きなニュースを今日「抜く」ために血道を上げるようなことが無意味な努力だとわかっていても、止められない。それが結果的に「国民のため」に役立つこともあるが、不正確な情報となって害を招くこともある。

 いつの場合にも、基本的に必要な努力は、国民の「知る権利」に応えることであろう。(「知る権利」についての明確な法的規定はないが、憲法第21条の「表現の自由」に基づくとされる)

ジャーナリストと生活財源の問題

 雇用ジャーナリストについていえば、生業(職業)か非生業(無償)かは、仕事の質に大きく影響する。

 生業であれば生活費を得るために作品を売らなければならないが、それを個人でするか、企業組織に雇用されてするかは、作品の質に関わる重要な違いが発生する。いずれにせよ「売れるか、売れないか」が制作の際の重要な要件になるが、雇用(企業)ジャーナリズムは経営権や編集権の介入によって、すなわち企業利益に左右されやすい。

 生業が別にあれば、ジャーナリスト活動のコストを自己負担、あるいは自由な寄付などによって賄うこともできる。「売れる」ことを考慮せずに、自由に意見を表現できる。しかし、「売れる」という市場評価は、単に収入のためばかりでなく、社会的な価値の尺度でもある。人々のために「面白くてためになる」情報を売ることが、良いジャーナリズムの基本的目標だろう。

 雇用ジャーナリズムと権力社会との関係はかなり深刻な事柄である。

 「雇用ジャーナリスト」は、まず企業内の支配構造に組み入れられる。この構造は役職と身分で組み立てられている。平記者が最低、社長が最高の地位である。その間に、部次長・副部長・部長、編集委員・論説委員・解説委員、編集局次長・編集局長・編集主幹などさまざまな役職や身分階層があって、それぞれの立場に応じて言論、報道の自由や価値観に対する他律的、あるいは自律的な規制を受けるのである。

 しかもそれらすべてのジャーナリストたちは、外部の政治権力や企業権力などの利益のための圧力を受け、価値観への影響も受ける。民主主義のための番犬であるためには、すべての権力に対する番犬でなければならないのだから、これら権力の圧力をしのぐのは容易なことではない。

 「雇用ジャーナリスト」には、書きたいことを書くことができるという自主的な「執筆権」はあるが、編集権によって、意に沿わぬ改変を受けることがある。しかも一方で、書きたくない発表記事を書かされるような「執筆義務」もある。僕には、社会部時代に、書かないで叱られた経験もあった。経済部時代の友人にも同様のことがあった。突き詰めれば、それに耐えるか、(相手を)改めさせるか、職を辞めるかの選択を考えさせられることになるだろう。共同通信にも、それで辞めたと思われる人がいる。しかし会社から生活費と取材費がもらえるというメリットはやはり大きなものである。簡単に否定するわけにはいかない。

真実を伝えるために重要なこと

 民主主義のための番犬、社会正義と国民の利益のための番犬として役割を果たすには、公表されていることの影に隠れた事実、隠された事実を明るみに出して公表することが肝心である。作家ジョージ・オーウェルは――ジャーナリズムとは報じられたくないことを報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない――と言ったという。

 そのためには、「調査報道」と表現の自由が不可欠である。その妨げとなる恐れの一つが「雇用ジャーナリスト」に対する経営権と編集権である。それらを民主化することも大きな課題である。その対策の一つが労働組合の参加だ。共同通信の編集綱領策定は、労働組合の参加の賜物であった。

 雇用ジャーナリズムに限らず、真実の自由な表現への障害物には、ほかにも直接的暴力や利益誘導などさまざまある。

 そして、情報を受け取る側には、注意深い「情報リテラシー」が必要だということを強調しておきたい。

 プレスキャンペーンというものもある。

 経営者、編集者も同調して、社会正義の世論喚起をめざすプレスキャンペーンができるという幸運な場合もある。これは、隠しごとを暴くのとは違って、権力への積極的監視とでもいうべきものであろう。しかし、キャンペーンの方向が逆の場合も多い。戦時中の記事がそれだった。

「事実」の報道と「真実」の報道

 事実と真実というテーマについて考えたい。

 「事実」とは、広辞苑「真実の事柄」「本当にあった事柄」。大辞林「現実に起こり、または存在する事柄。本当のこと」。新明解国語辞典「実際に有った事柄で、だれも否定することが出来ないもの」。

 事実の認識には、ある事柄が「不在」ということも含まれるはずである。大事なことが入っていない政策、というような場合には「あるべきものがない」ということも「事実」として認識すべきだろう。

 また、「不作為」(するべきであるのに、あえて積極的に行動しない)についても、それに相当するのではないだろうか。

 「真実」とは、広辞苑「うそいつわりでない、本当のこと」。大辞林「うそいつわりのないこと。ほんとうのこと」。仏教は「絶対の真理」。新明解国語辞典「偽ったりかざったりした所のない本当の事。まごごろ」。

 真実は、「嘘」「偽り」の対語とされているが、そのように限定するべきではないだろう。「嘘」とは「事実を曲げてこしらえたこと。本当でないこと」(大辞林)とあるが、嘘でなくても真実でないということがある。

 では、「事実の報道」と「真実の報道」とは、どう違うのだろうか。

 ある具体的な事柄について、あらゆる事実を知る努力をした結果、認識したことが「真実」で、「本当のこと」と言えるのではないか。なぜなら、部分的な事実の場合は、本当ではなくて「嘘」になる可能性があるからだ。

 しかし「あらゆる事実」を知ることは不可能だから、絶対的な真実など掌握できない。限りなく「真実に接近する」ということでしかないだろう。

 したがって「国民のための情報」としては、「真実」云々よりも、まずは「どういう事実を伝え、どういう事実を論ずべきか」ということに問題点を絞ってはどうだろうか。

 ならば、どういう事実を伝え、論じるべきか。

 僕の考えは、在るべき社会――社会正義、国民生活の改善、自由と民主主義、平和等々――に関わる「重要な事実」(すべては不可能だが)を伝え、論じるべきだと思う。これが僕の考える「真実の報道*」である。

 *後藤昌次郎弁護士(1924~2011)「真実は神様にしかわからない、か」の問題提起が重要である。後藤氏は、松川事件・八海事件・青梅事件等々の冤罪事件の弁護で活躍した。1992年には東京弁護士会人権賞を受けた。主張の要点は、

 ① 客観的な存在はある。

 ② 客観的な存在は認識できる。(あらゆることを絶対的に認識することはできないが)

 ③ 認識が正しいかどうかということは、実践――個人ではなく人類的なもの――によってテストされる。

 たとえば、検察や裁判所が、被告人に決定的有利となる証拠を隠すという事実がある。そして、権威を盾として裁判がおこなわれる結果、冤罪が生まれる。真実は、なるほど神様にしかわからないだろう。しかし、だからといって、たまたまの結果であったとしても冤罪を作り出してはならない。だから「疑わしきは罰せず」というのである。

 人を裁く行為は、神様ではない人間がおこなうのである。人権に基づいた民主主義に則り、道理を徹底的に追求する結果が判決でなければならない。

安倍政権下のジャーナリズムの状況

 あるべきジャーナリズムの基本的原則である言論、報道、表現の自由が急速に失われつつある。それは戦時中と同じく、権力による言論統制とジャーナリストの自己規制の両面から進行している。

 今や、ジャーナリストは目を覚まして起って闘うべきときである。

 とりわけ「雇用ジャーナリスト」は、言論、報道、表現の自由を守り推進する職業人としての自覚を呼び覚ましてもらいたい。