NO.1604
2月28日、ゼレンスキー・トランプ首脳会談は、奇想天外? の展開になった。映像を見ていると、副大統領バンスが、格上のゼレンスキー大統領に外交的解決を説き、ゼレンスキーが「どんな外交か?」と返したところ、バンスが、アメリカに対して無礼だとねじ込んだ。トランプが乗り出して、てんやわんやの大騒動。記者諸君はショックで茫然としたようだ。
経緯を振り返れば、十分すぎるほどにお湯が沸騰していた。トランプは、プーチンを固く信頼していると公言する。ゼレンスキーにすれば、これだけで背筋が寒い。しかも、トランプはゼレンスキーを独裁者呼ばわりする。和平の条件として、2014年以前の領土にもどすのは非現実的、将来の安全保障のためのNATO加盟の要望をはねつける。
トランプはウクライナ戦争を「止めた」という手柄顔がしたいだろうが、開始早々ならまだしも、3年以上続く戦争を、ただ止めさえすれば上等だというわけにはいかない。これでは、ウクライナの取り返しがつかない犠牲の上にプーチンに大サービスするのと変わらない。
客観的にいえば、トランプは、ウクライナが了解できる内容の停戦を、プーチンに納得させるだけの力を持たない。しかも、ウクライナへの支援は早く止めたい。とすれば、戦争を止めさせる大義をかざして、力づくウクライナを抑え込むしかない。これがトランプのアメリカだ。
このような事情において、ゼレンスキーはなんとしてもアメリカの支援を確保したい。トランプに言われるまでもなく、ウクライナにとって、アメリカの物心両面の支援は命綱だ。にもかかわらず、トランプ一派はあたかもプーチンの代弁者のごとき発言を繰り返しているのだから、ゼレンスキーが冷静沈着であろうとしても限度がある。
ゼレンスキーは訪米に当たって、容易に気持ちが収まらなかったとしてもなんら不思議ではない。なんとか、プーチンが信用できるような玉ではないことをトランプに説得せねばならない。どこから話せばいいのか。悩みぬいているところへ、バンス発言で、緊張がプッツンしたのではあるまいか。
わたしは、こうも考える。バンス発言にせよ、それを受けたトランプ発言にせよ、ひょっとすると計算づくの挑発だったのではないか。ゼレンスキーが引っ掛かったので、「それ行け」とばかり畳みかけた。テレビ報道している。MAGA一筋、いままでアメリカがウクライナを援助したことに、まるで感謝がないじゃないか。トランプファンへの大サービスだ。
トランプが、バンスを副大統領に引っ張った理由がわかる。真正面からトランプを批判していたバンスが、トランプの支持をえるや旧知の盟友、あるいは古参の強い味方に変身した。トランプが惚れ込んだ魅力を、今回バンスは十二分に発揮して見せた。まさに、類は友を呼ぶ。
トランプの理屈はむちゃくちゃだ。自分に抗弁するゼレンスキーに対して、「平和への用意がない」と暴言を吐いた。これは、まちがいなくプーチンに向けねばならない。戦争しているとはいえ、ウクライナは防戦一途である。したくて戦争しているのではない。防御の戦争である。
石破は、「感情をぶつけ合えばいいというものではない」とコメントした。しかり、石破は、「ブタもおだてりゃ木に登る」という言葉を実践した。あとで考えれば自分でも歯が浮くようなセリフを吐いた。まあ、自民党の諸君には「神さま」を使うのが好きな御仁は少なくないが。
アメリカ国内でも首脳会談騒動はだいぶ話題になっているようだ。感情的な問題はともかくとして、バイデンからトランプへと揺れ動いたが、いずれにしても大アメリカの時代が終わったというべきである。すでに1990年代、アメリカの識者は、早晩国内で暴動が発生すると危惧していた。国内政治が行き詰っていた。トランプの登場は、つまり、それである。意地汚いトランプが消えるまで、暴動は治まらない。
ウクライナ戦争を終わらせねばならない。ただし、「所詮はカネと力でしょ」というごとき世界へ歩んだのでは本末転倒だ。いまのアメリカは、世界秩序の軸となる資格がない。日本は、普遍的価値観による世界を目指すといってきたのだから、その道を歩こう。みんな性根を入れねばなりません。