筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)
「『労組は相棒』は本当か」という記事は、どうも労働組合とは、経営ないし経済発展の手段であることが求められているというのが論旨のようだ。そのことをもって、筆者(記事)は、労働組合が経営の「相棒」だというのだろう。
この記事には、議論の前提として、経営も、労働働組合も、それぞれ論じられる存在とは、そもそも何なのか、どうあるべきなのかという根本を問わずに展開されている。そのうえで、現状を所与のものとして疑うことなく、論じているので問題がある、と私は考える。
そんなわけで、いま、「『労組は相棒』は本当か」と問われれば、「労組は相棒ではない!」と言おう。
記事の要旨
日本経済新聞「中外時評」に、「『労組は相棒』は本当か」(2025年2月19日付)という記事が掲載された。
論旨は、――ここ2年の高い賃上げが、会社の財務負担となり、経営の構造改革が想定される状況にある。労働組合は、企業経営を攻めの姿勢で支える「相棒」(パートナー)であれ。
また、そうあることで「不要論」まで繰り出される労組の低迷衰微の現状を払拭できるのであって、いまはその正念場にある。――と主張する。
背景には、経団連の今春闘に臨む方針『2025年度版・経営労働政策特別委員会報告』がある。この報告書は、「付加価値の最大化」と「人への投資の強化」が、経済成長と分配の好循環をもたらし、ウェルビーイングな社会(身体的・精神的・社会的に良好な社会)を実現するとし、労働組合と共有・協力して実現していくのだとする。それを、「未来協創型」労使関係と称し、労働組合は、「経営のパートナー」「重要なステイクホルダー」であるとの麗句が並ぶ。
これが筆者の言う、「相棒」であろう。ただし、経営側の労組への歩み寄りが目立ち、労組はそれに戸惑い気味だとして、その新たな関係構築、つまり労働組合の「相棒」化は可能かと問うのである。
「相棒」化した事例
筆者は、「相棒」関係にあると思われる労使の事例を紹介している。
T社は、「労使働きがい推進委員会」を設置し、「生の情報と本音をぶつけ合う場」として、処遇制度や人材育成等の議論をする。労務担当役員は、組合側は圧倒的情報不足であり、経営のスピード感についてきてもらうため、この場をもって労使協議の不足を補うのだという。
H労組の委員長は、企業成長には、多様な視点が必要であるから、現場の組合員の声を経営に伝え、経営施策に影響を及ぼすことが、労組の存在感を高めるためる道筋だと述べている。
加えて筆者は、03年に電機連合が、経営環境の変化や不況に伴う企業の構造改革に対応して、雇用を守るために、企業の枠を超えて個人が学ぶ仕組みをつくったことを、労働組合の先駆的事例だとして紹介している。
労働組合の問題
筆者は、現実の労働組合は、経営側が擦り寄るほどの期待に対して、「相棒」とは成り難いとする問題を抱えていると指摘している。それが、記事の表題に込められているようだ。
そこには、労働組合の組織率の低下、労働組合に対する圧倒的な無関心層の多さがあげられている。ゆえに、過去2年の高率賃上げでも、組合の再評価には至らないほど、労働組合が弱体化しているのだという。
しかし、労働組合の弱体化の問題の本質が、なぜ「相棒」とは成り難いのかについては、言及されていない。
また、筆者は、これまで労働組合が賃上げを抑制し続けてきたのは、会社への忖度であり、それが、現在に至る賃金水準の低迷の原因だとの見方は根強いとして、これを是認する。――私は、これを全く否定するものではないが、賃金の低迷を労働組合の問題だと言い切ることはできないはずだ。
経営の問題
バブル崩壊以降、日本の経営は、非正規労働者を雇用労働者の4割弱までも増やし、全体的な賃金上昇を抑え、労働者を資本蓄積の手段としてきた。
また、低金利政策下において、国民所得を企業に移転させて財務体質を支え、不安定な将来に備えるとして革新的投資を怠ってきた。その結果、内部留保を約600兆円(23年度末)も貯め込んだ。
この期に及んで、経営が、政府の賃上げの働きかけに呼応するのは、ウェルビーイングな社会を目指す理念理想というよりは、過去来の行動が、結果として資本の利潤率の低下をもたらしたことに対しての思い直し程度であって、今後に向けての体裁を取り繕ったようにしか、私には思えない。また、政権が求める賃上げに呼応するのは、忖度すれば見返りがあるからだろう。
なぜならば、経団連には、日本の経済・社会をこのような現状に貶めたという反省・総括が感じられない。労使関係を語るのであれば、経団連に対して問題提起をしなければ、議論の正しい立ち位置には立てない。
加えて、社会的観点から、労働組合に対する本質的問題提起や、経営に対しては、労働組合に依存しないという、経営としてのあり方や、矜持はないのかと問題提起すべきではないのか。
労働組合は経営の手段か
事例で紹介したH社の労務担当は、前掲のコメントに加えて、労働組合が、社員の定着やパフォーマンス向上に果たす役割は大きいと述べている。また筆者は、現場の声を上げ、経営施策をチェックする労組機能に期待する経営幹部は少なくないとも述べている。
私は確信する。労働組合は、経営の手段の一つではない。この記事のような考え方では、相変わらず、労使もたれあいにしかならないだろう。
経団連が、これまでの反省・総括無しに、労働組合に対する麗句(前掲)を重ねたようにしか見えない。
H労組のコメント(前掲)は、記事の論旨に適うように切り取られたのかもしれないが、――労働組合が、経営のガバナンスとマネジメントの不足を補う役割を果たすことで、組合員の認知と存在感を高める――としているのは、自らの存在を、矮小化し、その現状に甘んじてはいないか。
記事の論調は、労働組合は、経営の発展、ひいては日本の経済発展を支える存在たれ、と薫陶を垂れるようだが、これでは、労働組合は、経営ないし経済発展の手段でしかない。筆者には、労働組合論を根本から考えなおしてもらいたい。
記事で述べられたことの問題点
この記事を読んで、私は、腑に落ちないという違和感から、道理を欠いているという怒りへ、それを通り越して、あきれ返っている。
まず、どのような社会が望ましいのかという前提を感受することができない。経営の発展ないし経済が重要だというだけだ。
次に、その望ましい社会を支えるべく主体(ここでは経営と労働組合)が、どのような存在であるべきかという根本の考え方がうかがえない。
だから、現状に至るまでの歴史的経過の総括がない。
また、望ましい社会のあり方の観点から、いまどこにいるのか、それはどのような問題・課題を孕んでいるのかという、正しい現状認識がない。
筆者、経営側、労働組合に共通しているのは、企業主義化により労資和解を果たした55年体制(*1)における「労使協調」という美名のもとでの、「労使溶融」を作ってきた労使関係観と労働組合観である。
その古色蒼然とした基盤? にもたれて、根本の問いかけがないまま、議論が上滑りしていて、私には気持ちがわるいのだ。
さいごに
この記事を通して、何が自分たちにとって大切な問題か。それぞれの主体が、どこまでも誠実に問題を追求しようとする覚悟が見えてこない。そのような態度や覚悟がなければ、ものごとは発展しない。
これは記事に限ったことでなく、日本社会全体に言えることかもしれない。振り返り、思い返して、私自身にも、大いに反省する点がある。
<参考文献>
*1 「幻視の中の社会民主主義~戦後日本政治と社会民主主義」新川敏光、法律文化社、2007年
「企業主義労働組合」とは、自らの政治的要求を日本経済の発展を通じて実現するという志向を持つ。また、労働者も企業社会に組み込まれ、その意識は経済成長と企業の成長を通じての自己の生活の改善を志向することになる。