論 考

楽しくなければテレビじゃない、か?

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 フジテレビの記者会見が10時間23分だった。長時間粘った記者も、フジテレビの重役陣も大奮闘である。長いのが能ではないが、これだけ頑張ったのはそれなりに評価するべきだろう。関係者のみなさん、ご苦労さんでした。

 つまらない思い出である。――昔、21時から翌朝6時まで総勢100人ほどで、「時の記念日」イベントを開催したことがあった。これはセルフサービスで飲み食いしつつ、シンポジウムやゲームで楽しんだ。朝になって、みなさまご退席のあと、「バカなイベントやったなあ」というつぶやきが出た。くたびれた。

 その後、わたしは24時間連続講演をやりたいと仲間に相談したが、きっぱり反対されて、ついに実現できなかった。「話す本人はよいとしても、聞いてくれる人がいない」とバッサリだった。

 まして、かの記者会見は、さながら記者が抗議的追及をする。言い方はわるいが、記者のほうは嫌になれば退席できる。しかし、質問に答弁するほうはそうはいかない。なにしろ、先日17日の記者会見が内外から袋叩きの体で、大手スポンサーが成り行きを注視している。会社の存亡がかかっている。

 しかし、今回の記者会見も合格のハナマルではないようだ。もちろん、記者会見は長ければよいというものではない。長かったのは、質問に核心的答弁がなされないからである。記者が400人もいるから、われもわれもと質問する。これ以上後がない答弁をしない(できない)から、いつまでも終わらない。

 最大の問題は、そもそもの原因である、タレントが引き起こしたトラブルなるものの中味が不明なままである。記者にすれば当然ながらもどかしい。被害者のプライバシーを恣意的に盾にしていなくても、記者の不信感、イライラが高まる。答弁側の追い込まれた切迫感と質問側のイライラとの緊張感が続く構図である。

 そこで質問の矛先は責任問題へ移る。社長・会長が最初に辞任表明しているのだから、さらなる責任問題の追及はエスカレートせざるを得ない。かりに実力者の相談役がこの問題と無関係であったにしても責任をぶつける流れになる。

 記者会見自体は、フジテレビに詰め腹を切らせるのが目的ではないが、結果的には一種の抗議集会の感になった。

 10時間23分のマラソン会見になったのは、問題の事実関係がきっちり公開されないからである。にもかかわらず、フジテレビ側がやり直し会見を急いだのは、スポンサー離れが一挙に進んだからだろう。

 しかし、事実関係を不明なままでは幕引きができない。第三者委員会で3月末をめどに調査を進めるそうだが、常識的に考えて、フジテレビ側の関与がまったくなかったという結論にはなるまい。

 とはいえ社内の人権問題に関する意識や、コンプライアンスのまずさを一挙に改善できるだろうか。これは、フジテレビだけではなく、世間の会社を見ればわかる。経営陣が責任を取って辞任しても体質は変わらない。変えるためには、大変な苦心と努力が必要だ。

 わたしは、以前からテレビをあまり見なかったが、10数年前に完全にテレビを捨てた。あまりにも騒々しく、軽薄で、わざわざ時間を投入してつきあいほどのこともないと考えた。

 「楽しくなければテレビじゃない」というのはフジテレビのキャッチコピーだが、フジテレビ以外も、おおむねその方向だ。たとえばバラエティお笑い番組だが、「楽屋落ち」ネタが極端に増えた。要するに、身内の好き放題ネタが画面から排出されている。登場した連中同士で勝手に盛り上がって、楽しいと思っているみたいである。

 国会でも石破氏が、「楽しい日本」などと語っているが、楽しいという言葉の意味は明快ではない。バカ騒ぎと楽しさは別物である。ということがしっかり理解されぬままにフジテレビ的事態が発生したと思えば、施政方針もまた無傷では済まない。もちろん理屈であるが。

 マラソン会見の背景には、フジテレビだけではなく、わが社会の「楽しい」状況が無意識のうちに反映していると思うのである。