筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)
ご恵贈いただいた『民族自決と非戦~大正デモクラシー中国論の命運』を読み、著者が、この大著にかけた思いに応えたいと考えて論考とした。
読み終えて、私は3つのことを自分の学びとした。一つは、「大正デモクラシー中国論」の論客たちと係る人たちのヒューマンドキュメントとして読み、人間としての生き方に学んだ。二つ目に、ジャーナリズムの社会的使命、それを担う人の矜持、そして仕事の思想に学んだ。三つ目に、著者が明らかにした太平洋戦争から壊滅的敗戦に至るまでの日本の社会的メカニズムから、私たちの教訓とすべきことを学んだ。
そして、この大著を上梓した高井氏のその思いとは、人生の来し方を振り返り、ジャーナリストとしてあり方、そして人間としての生き方を、自ら確かめたい。そしてそれを次代につなぎたいということではなかったのかと、私は感受した。
「民族自決と非戦」とは
高井氏は、膨大な量の先行研究や関連する資料や情報を読み解き、考察を深く掘り下げ、「大正デモクラシー中国論」が明治期を萌芽とし、大正期から太平洋戦争に至るまでに展開された思潮であることを主張している。
「大正デモクラシー中国論」とは、「大正デモクラシー」という時代の息吹を受け、対外的には、日本の中国大陸侵略政策を批判しての国際協調、つまり「非戦」を訴え、中国・朝鮮の「民族自決」を支持する立場に立つ人びとの中国論やメディアの中国報道を総称したものである。
高井氏は、「大正デモクラシー中国論」の経過と結果について、「これでもか」というほどに探求し、つぶさに検証し尽くした。これによって、現在および今後の中国論にとっての教訓を導き出すことを、著作の目的としたのだという。
同書は、400頁余に至る大著である。私は、高井氏がこの著作にかけた並々ならぬ思いを感受した。この本を読み、私自身が、何を思い、何を考えたのか。論考にすることによって、高井氏の偉業に対する敬服の念を表したい。
ヒューマンドキュメント~人間としての生き方を問う
読後の感想は一言にすれば、「本当に、面白かった」。その面白さとは、高井氏が、ライフビジョン学会のホームページに投稿された論考のなかで「学術書研究書ではなく、戦前のちょっとイケ(・・)てる(・・)中国論を書いた人々のヒューマンドキュメントです。」と、語られたところにある。
高井氏は、「大正デモクラシー中国論」の思潮をもたらした主要な論客たちの生き様を、多くの文献や多様な資料、その他情報収集に当たり、その背景にあった事情、また、論客たちとこの時代の重要な人物との交流の軌跡、そして論客同士の思想や思いのつながりを、つぶさに紹介している。
とりわけ清水安三については、関係者の証言まで探り、その人間性を多面的・立体的に紹介している。だから、論客たちの生き方が、生々しく浮かび上がってくる。私は、「自分だったら…」との思いを少しく巡らせながら、それを面白さとして享受した。
彼らは、満州事変以降の社会情況から、その持論を変節せざるを得ない契機にあっても、智慧を駆使し、問題状況の本質を批判し、ギリギリの抵抗によって「非戦と民族自決」という自らの信念を通した。その生き方に通底するものは、人間主義を根源とした、「独立自主」の精神だと言えよう。
ゆえに彼らは、中国・朝鮮の人びとを、自らと同じ人間として、その立場に立って物事を見て論じることを当然とした。人間も国家も、「独立自主」なのである。また、このような生き方や信念は、国境を越えて、同じ思いを抱く人たちのつながりをもたらし、相互に影響し合った。このことは、人生の妙味、「面白さ」と言えよう。
高井氏は、当時の彼らの評論を帝国主義的と批判した研究に対し、評論というものの性質を踏まえ、かつ深遠な追求と検証により、その批判を覆した。この高井氏の情念と努力に、私は圧倒された。
ここにきて、高井氏の論考にあった、「イケてる」が何を現すのかということが、私の考えに余地を残すのだが。私は、高井氏が共感して止まない、この論客たちの生き方の「カッコよさ」だと、解したい。
ジャーナリズムの社会的使命、ジャーナリストの矜持、仕事の思想
この著書全編にわたって、ジャーナリズムの社会的使命、それを担うジャーナリストしての矜持、そしてその仕事に対する思想はどうあるべきなのかを、私は読み取った。「大正デモクラシー中国論」の論客たちの評論活動は、まさにこれらのことを、誠実に体現したものだったと言えよう。
一般論となるが、ジャーナリズムには、健全な民主主義を維持発展させるという、極めて重要な社会的使命がある。それを担うジャーナリストには、それを全うすることを自らの誇りとする「矜持」を持つことが求められる。そして、それをどう現実にすることが可能となるのかの考え方が「仕事の思想」である。
このことは、多くの紙面を割いた清水安三に、より善く体現されているように思えた。ただ、清水は中国論を専門とするジャーナリストという範疇では語ることができない。それは、清水が、「非戦と民族自決」という信念を現実のものとするために、人間として持てるものを惜しみなく投入した、実践家であり運動家であると、私は解したからだ。
とりわけ、中国社会改造の主要人物と日本の言論人との間を取り持ち、また日々、中国の民衆との交流を図り、清水は、その日中相互理解の「結節点」ないし「触媒」としての役割・機能を果たした。
日中両国の民衆とともに、社会改造の共同運動を提起し、民間の交流・連帯を呼びかけた吉野作造もそうだが、ジャーナリズムの使命とは、一般論の則を越えたところに、体現されるのではないだろうかと、感じ入った。
日本を太平洋戦争に至らしめた社会的メカニズム
日本が、明治期からの「富国強兵」という国家目標を掲げ、満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争へと没入し壊滅的敗戦に至った社会的メカニズムを、高井氏は、「世論・メディア・軍部の三位一体」の構造とした。とりわけ、世論の扇動に加担し、軍部の暴走を許したメディアの問題を中心に総括している。
私はこの章を読みながら、「鵺(ぬえ)のような社会」という言葉を思い浮かべた。鵺とは、伝説や民話の想像上の動物だが、様々な動物の特徴を持ち合わせているのだが、これと言ってなんだかわからない主体である。
「鵺のような社会」とは、異なる利害動機を持つ主体が、総体としての責任主体を形成せず、それぞれの利益の最大化という目的のもとに結びつき、社会を動かしていくことを指す。
それぞれ構成する主体は、「虚構性」に充ちている。虚構性とは、理想の人類社会の実現に資することのない、性質や言動を指す。それを自分の利得のために体現する人を「虚構性の人」という。(注2)「虚構性の人」は、自らの利に資することであれば、真実にもとづかない言動であってもかまわないのだ。
まさに、提起された社会的メカニズムは、この「虚構性」の人びとにより展開された。軍部の虚構の大義や構想、メディアの虚構の報道や事業、大衆の戦争に対する虚構の歓呼、それらが相乗して、問題方向を増幅し、不可逆的にそれを進展させ、破綻に行き着かせた。相似形のことが、大小問わず、日本社会の今にも散在する。
三位一体の構造から、それぞれの主体の総括が導き出されるのだが、これらはいずれも機械ではなく、人間がもたらしたことだ。ゆえに、問題はすべて、人間の生き方に還元される。
日本人は、明治期から現代にいたるまで、「空洞化した自我」の内実を埋められないままであるという、一説を思い出した。明治期の国家統一は、個を超越した神(天皇)の存在に依存した。そして、「富国強兵」に邁進し、「アジアの盟主」という神話に酔い、敗戦をもたらすことになった。
敗戦後は、「富国強兵」を焼き直した「経済成長神話」に仮託し、いまだ酔いがさめない。近代以降、日本人は、自己を没入する対象を求め続けるのみで、「空洞化した自我」はそのままだ。問題の本質はここにあり、敗戦に至った社会的メカニズムのリスクは、いまだ消えてはいない。
これを教訓とすれば、問題解決は「内実を伴った自我の確立」となるし、それをこの著作から読み取れば、一人ひとりの「独立自主」ということに行き着く。
さいごに
全編を何度か読み返し、要点をまとめ、論旨を整理し、自分の考えを導き出し、論考とした。拙い論考ではあるが、高井氏の思い(勝手な私の思い込みですが)に応えたいという動機が、苦しくても脱稿することを諦めさせない力となった。
そして、この大著には、高井氏が、人生の来し方を振り返り、ジャーナリストとして、自ら感ずるところの使命、抱いてきた矜持、実践の思想、そして求めてきた人間としての生き方を確かめたい、そしてそれを次代につなぎたいという、強烈な思いがあることを、私は感受した。
注1 『民族自決と非戦~大正デモクラシー中国論の命運』 高井潔司著 2024年 集広社
注2 Online Journalライフジョン・論考「虚構性と資本主義」新妻健治 2023年11月