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アクティブ・ラーニング(Active learning)という言葉がある。自分から能動的に考え、学ぶという意味である。従来の知識を伝達・注入する教育方法ではなく、学ぶ本人の主体性・自発性が出発点だ。
理屈は当たり前である。馬を水辺へ連れていくことはできても、水を飲むか飲まないかは馬の勝手である。無理やり馬に水を飲まそうとすれば、馬が嫌がる。嫌々だからきちんと飲まない。では、どうするか。馬が自分から水を飲みたくなるように仕向ければよろしい。水が飲みたい馬は、自分から水辺を探すだろう。ならば水辺へ連れて行けばどんどん飲む。
以前、ゆとり教育と言われた時期があった。詰め込みでは勉強嫌いの子供を作るだけだから、窮屈でなく余裕をもって教えるという狙いだった.しかし、親などには評判がよくなかった。先生には子どもにしっかり教えてもらって、子どもの成績がどんどん上がるようにしてほしい。ゆとり教育なんて、子どもを遊ばせるだけで成績向上に結び付かないという声が圧倒した。
優秀な先生がいるとする。もし、先生が教えたことがそのまま子どもの学力になるのであれば、おおいに結構である。しかし、先生が優秀であっても、子どもが優秀に育つ可能性は高くない。教わる子どもの頭脳がほぼ均等だとすれば、優秀な先生に教わった子どもは揃って成績優秀になるはずであるが、そうはならない。水を飲むか飲まないかは馬の勝手だからだ。
親の欲目というか、なにがなんでも自分の子供は成績優秀であってほしい。そうではあるが、ここは少し冷静になりたい。親たるものがどなたさまも成績優秀だっただろうか? そんなわけがない。失礼ながら。
自分の出来がさほどでもないのに、子どもには大きな期待をかけて、先生にはその期待に沿うようにうまくやってほしい。とても無理な注文をしているのだが、そのように頭が冷えないのは仕方がないだろうか。
学ぼうとする態度が強いか、弱いか。これは大きな分かれ道である。先生の教えをひたすら忠実に聞くだけではなく、自分から知識を求める。さらには、先生の教えが果たして正しいかどうか、判断する態度で学べというのは多くの先人が主張しているが、これは相当高度である。
アクティブ・ラーニングは、能動的な学習とするために、本人の主体性・自発性を最大限引き出そうとする狙いである。
方法論としては、講義形式の座学ではなく、まず、与えられた問題を、仲間と一緒に考える。グループワークが一般的である。自分の意見を発表し、他者の意見を聞いて考える。必然的にコミュニケーション能力が磨かれる。
次に、みんなで考えた結果が妥当かどうか吟味する。そして、なにが妥当で、なにが不足していたか。全体を通して考える。これをまとめて、DO・LOOK・THINK(やってみる・ふりかえる・かんがえる)と呼ぶ。このような一連の学習をおおざっぱに体験学習と呼んでいる。
やってみるとよくわかるが、参加者の理解度も満足度も高い。座学のようにひたすら拝聴するのではなく、自分から問題を考えるので集中度が高い。話し合いは楽しいものである。欠点は、時間がかかる。
テストでよい点数を取るための勉強ではない。解決すべき問題を設定し、問題解決の方法を考える。これを敷衍すれば人生そのものの学習である。人生の主人公は自分自身である。主体性・自発性を発揮することが人生である。しかし、現実に主体性・自発性の発揮は容易ではない。これが問題だ。
アクティブ・ラーニングは、単なる勉強のスタイルではない。個人の人間形成がいかなるものかを考える意義を示している。誰かに教わる教育ではなく、主体的自発的に学ぶこと、すなわちアクティブ・ラーニングこそが人間的成長の根幹的方法論であるともいえる。
国連ユネスコ(1946)の生涯学習の定義によれば、――学習は、①生涯継続する、②人生のあらゆる側面に関係する、③社会変化に対応する、④学校教育だけで終わらない――とある。
わたしがこの定義を知ってから半世紀になる。考えてみれば学校時代に積極的に学ぼうとした記憶がない。もったいなかった。まさしく人生はDO・LOOK・THINKの絶えざる循環だ、とつくづく思う。