筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)
―-参加したプロジェクトが、当初私が描いたものには至らず終了した。開催趣旨のなかには、重要な論点が含まれ、参加メンバーの顔触れも得難い存在であることから、次につなげるための総括をと考え、論考とした。
総括すると、プロジェクトを設置して、有効な成果を出すためには、まず、それに適う「構え」を持つこと。そして、成果創出に向けての「地図」を描いて共有し、メンバーの思いや力を引き出す契機や関わり方を認識してもらえるようにすることが必要だ。
プロジェクトへの参加
ある公益財団主催の「21世紀型成熟社会の理論・研究プロジェクト」の期間2年が、この11月で終了した。プロジェクトのメンバーは、連合傘下主要産別(9組織)の政策担当者と研究者(大学教授)、連合総研研究員で構成された。私も、この公益財団の専務理事とのご縁で、参加することができた。しかし、そのプロジェクトは、私が思い描いたものには至らず、残念な思いが残った。
このプロジェクトの開催趣旨のなかには、極めて重要な論点となるべきことが組み込まれている。そしてまた、これだけのメンバーを招請できる主催者の力量を考えれば、これで終わりとせず、次につなげたいと、私は考えた。だから、自分なりの総括を残しておきたいと思い、それを論考とした。
「混迷する成熟社会の労働運動」
まず、この研究プロジェクト設置の目的を記した文書がある。その記述にもとづき、私の認識を述べてみたい。
要旨は、大きく二つある。一つは、この研究プロジェクトの背景にある問題意識だ。二つ目は、何をもってプロジェクトの成果とするかと、そのための研究プロジェクトのあり方を示している。
一つ目は、「混迷する成熟社会の労働運動」との表題が付けられている。その第一パラグラフで、私たちが直面する、例えば気候変動のような世界的に深刻な問題は、近代社会の見直しを迫るような社会変化だとしている。そして、このような事象は近代の「成熟」とともにあるのだと。だから、プロジェクトの名称には、「成熟社会」という言葉が使われている。
しかし、問題の深刻さを踏まえれば、「成熟」という言葉は欺瞞だと、私は思う。私たちが直面する深刻な問題は、近代という時代のあり方、そして私たちの生き方が、限界に直面していると考えるべきだ。「成熟」とは、「充分に実る」、または、「充分に成長して適当な時期に達する」という意味であり、この事態には相応しくない。
その意味から、近代社会を見直し、次代に向けた変革が必要だとするならば、「成熟社会の‥」ではなく、「近代社会の転換期」ないしは「転回期」の労働運動とすべきだろう。私は、次代社会を構想し、その理念踏まえつつ、現実を変革する実践を端緒に、その連鎖をもって底流とし、徐々にその流れを増量し、時代の方向性を変えて行くという意味で、「転回期」という表現を採用したい。
次に、このような時代にあって、人びとは、「社会はどこへ向かおうとするのか」という認識や、「私たちはどこへ向かえばよいのか」の指針を持てずにいるとある。であるならば、労働運動を語る前に、この問題についての学びと、十分な議論を経たうえで、まがりなりにもそれについての答えを出すことが、労働運動を検討することの前提ではないだろうか。しかし、それには触れられてはいない。
そして、社会変動(産業構想変化と雇用形態の多様化など)がもたらしていることが、労働組合の運動の低迷・衰退を招いているとしている。しかし、労働組合の低迷・衰退は、その組織内部において、労働組合の活動の基本である組合民主主義の形骸化(組合員の関心の低下と参加の低迷)という、より深遠で深刻な問題を孕んでいることを踏まえなければならない。しかし、そのことには触れられてはいない。
最後のパラグラフは、低迷・衰退する労働運動の再興の方向性を問うことになる。共感できたのは、労働運動が「より広範なアクターを包摂する盤石な運動として再興していく…」という、記述である。つまり、その方向で、労働組合とその運動が、社会的影響をもたらすことを意図している。日本の労働人口約6900万人、労働組合の組織率は2割にも満たないが、日本最大の大衆組織であり、中間団体でもある。その社会的責任と可能性の大きさを、私たちは自覚しなければならない。
そして、「労働運動はどのように変わっていけばよいか」との記述に続き、それを、このプロジェクトの背景にある問題意識だとする。だがしかし、このことを、アウトププットすべき焦点だとはしていない。だから、出だしから、私の思い描いたものとは相違していた。
「政策立案の足もとを見直す」
二つ目の要旨のこの表題をみれば、一挙にスケールダウンしている。その意図は、時代の転換や転回のような大きくて深い問題が、背景にはあるのだが、それはひとまず置いておくとの意図だろう。これでは、一つ目の要旨が、ただの前置きにしかならない。
そして、まず労働組合が働く者のためにどのような政策を掲げ、どのような制度を創っていくかが、このプロジェクトの注目点だとしている。労働組合は、歴史的に、社会運動を通して働く者の生活を守るという立ち位置から、社会的問題にコミットしてきた。しかし、変容する社会において、この関係が希薄化しているのだと指摘する。先の見えない時代にあって(見ようとすればいい)、あらためて労働組合は、社会的役割を果たしていくべきだとしている。
「政策立案の足もと」とは、目指す社会のあり方をどう描くか、社会へ深くコミットできる価値観は何かということを、問いとして見極めるのだという。だが、このプロジェクトで、明確に案出するとは、提起していない。
最後に、このプロジェクトは、ともに学び、ともに論じ合うプラットホームだと定義する。だが、時代変容においても、労働組合とその運動の衰微も、極めて深刻な事態だと思うのだが、曲がりなりにも、その結論を求めないで、プロジェクトと言えるのだろうか。
いつも思うこと
組織において、何かことを成そうとするとき、その根本に一人の人間の揺るがない信念が所在すると、私はいつも考える。手続きとしての組織的意思決定のプロセスは必要だが、組織総体が、信念をもってその本質を理解・共有し、賛同し、決定しているとは思えない。
一度決定されれば、この何かを成そうとする信念と熱量が、共感する人を呼び寄せ、その人びとの行動と連帯を促す。また、その信念と実現したいという熱量が、この取り組みに係るあらゆるものに浸透し、総体としての動きを取りまとめる力になるのだと、私は思う。
このプロジェクトには、主査だろうが事務方だろうが、その主体としての信念と熱量の所在を、感じ取ることができなかった。
言い訳だが、私は最初オブザーバーの位置付けだった。初回に発言が無かったことをいぶかしげに感じた専務理事が、参加メンバーへと引き上げてくれた。そこから、私は、プロジェクトの折り返し地点において、そもそもこのプロジェクトの「構え」の問題や、結論に向けたプロセスをデザインすること(私はそれを「地図」と表現している)の必要性を、問題提起した。しかし、事務方とは共通認識を得るに至らず、その流れを変えることはできなかった。
連合傘下主要産別の政策担当者の皆さんは、このプロジェクトの枠組みそのものに疑問を挟むこともなく、識者の聴講と質疑を繰り返し、意見を求められれば応えるという体で、全体を終えた。そのことも残念でならない。
プロジェクト考
プロジェクトを設置し運営するにあたって、まず一つ目に、誰が信念をもって熱量を発揮しうる存在なのかという起点となる人材が、所在することが必要だ。
二つ目に、プロジェクト実施の背景にある問題意識の共有はもとより、何をもって成果とするのかを明確にするとともに、そこに至るプロセスをデザインし(途中での改変も当然に可)全体で共有して欲しい。また、そこに十分な時間をかけて欲しい。
三つ目に、であるならば、メンバーに、誰がどのようにふさわしいのかを明らかにし、各産別代表のような平板なメンバーの選択は、回避して欲しい。そして、その進め方と熟議の方法、採用するコンテンツの選択については、充分な検討のもとに、また、プロセスの進捗状況を踏まえながら、マネジメントして欲しい。
以上、総括すると、私には専門的な知見は全くないが、プロジェクトを設置して、有効な成果を出すためには、まず、それに適う「構え」を持たなければならない。そして、成果創出に向けての「地図」を描いて共有し、メンバーの思いや力を引き出す契機や関わり方を認識してもらえるようにして欲しいと、申し上げたい。
しかし、2年間、このプロジェクトにどう関わるべきか、識者の問題提起の都度に、自分自身の学びを進めることができ、それは有難かった。年明けから、成否にかかわらず、次につなげる工作を始めてみたい。
