論 考

追悼 報じられなかった気骨あるジャーナリストの死

筆者 高井潔司(たかい・きよし)

 わが尊敬する読売新聞の先輩であり、本欄でも何度か紹介したことのある前澤猛元論説委員が、11月30日お亡くなりになった。鬼頭判事補の偽電話事件の“スクープ”や冤罪無罪判決の先駆けの一つとなった布川事件の再審裁判に関わるなど、司法担当記者として活躍された。退社後、金沢学院大学、東京経済大学で教鞭を執るかたわら、メディアの倫理やその説明責任制度に関する著作、翻訳を数多く出版され、実践と研究を兼ね備えたジャーリストとして、学会でも一目置かれる存在だった。93歳で亡くなられたが、直前までFacebookなどにも鋭いメディア批評を書かれていた。来年3月には、遺作となる冤罪問題に関する著作も刊行の予定という。

 残念ながら、立派な業績を挙げたのに、様々な原因でその死はメディで報じられることはなかった。そこで業績のほんの一部を紹介し、前澤さんへの追悼文としたい。

鬼頭判事補偽電話事件

 まず鬼頭判事補の偽電話事件だが、田中角栄前首相の逮捕というロッキード事件捜査華やかなりし1976年、捜査のかく乱をねらった現職の裁判官、鬼頭史郎が8月4日、布施検事総長をかたって三木首相に電話をかけ、当時の中曽根・自民党幹事長の逮捕必至と伝え、指揮権発動による「田中起訴、中曽根不起訴」の方針承認を要請した。しかし、三木首相が受け入れなかったため、鬼頭判事補は6日にその録音テープを読売新聞に持ち込み、報道させようとした事件だ。

 その時、対応したのが、前澤論説委員と社会部の司法担当記者の計3人だった。前澤さんは、鬼頭判事補とそれ以前から接触があり、その関係を頼って鬼頭が持ち込んだのだ。その接触とは、偽電話事件同様、その後マスコミを騒がせた共産党の宮本顕治身分帳事件にまつわるものだった。それはそれで興味深い事件だが、ここでは割愛する。前澤さんたちは、持ち込まれた録音テープが偽電話と見抜く一方で、その証拠として密かに録音し、すぐに報道を試みた。しかし、意外なところからストップがかかり、原稿は2か月も眠らされた。

 そのストップをかけたのは、当時政治部長で、その後40年余にわたって主筆の座に君臨し続けている渡辺恒雄氏だった。その内幕は伏せられたままだったが、2015年になって前澤さんがメディア研究誌『メディア展望』同年9月号(公益竿団法人・新聞通信調査会発行)の「『謀略電話事件』の深層」で明らかにした。

 前澤さんによると、鬼頭判事補が偽電話テープを持ち込んだ4日後の10日、関連取材を終え原稿が出来上がり、印刷にかける最後の編集局の会議が開かれた。その際、呼ばれてもいない政治部長が突然入室して来て、その場から三木首相に電話を入れ、そうした電話のやりとりがあったか、問い合わせた。前澤さんは論説委員なので、編集局の会議には出席していない。代わりに出席していた社会部長は会議の後、前澤さんに対し、「報道は駄目になった」と次のように説明したという。

 「渡辺さんが『三木首相に偽電話のことを聞いたら、否定したんだ。首相が否定したんだから、記事には出来ないよ』といい、結局、報道は断念することになった。でも渡辺さんは『4日の電話は本当にあったんだね』と言って笑っていたよ」

 報道断念の経緯について、前澤さんはこう批判する。

 「本来、ジャーナリズムの常識では、微妙なニュースの当事者には取材の最終段階で当たる、つまりコンタクトを取ることになっています。それまでに、必要な情報を収集しておくから、最後に当事者が否定しようが、肯定しようが、記事掲載に支障も生じないわけです。強大な権力による『記事つぶし』を避けるための社会部的経験でもあります。しかし、そのルールを逸脱した渡辺氏の政治的言動によって、この報道は途中で挫折せられることになったのです」

 しかし、2か月後、事態は一転する。社会部の国会担当記者から、明日、参院ロッキード特別委員会で、「読売が何か重大なニュースを隠している、と追及されるそうです」との情報がもたらされたのだ。

 そこで編集局は急きょ体制を整え、特別チームを作って、直ちに記事を執筆し、10月22日付け朝刊の一面と社会面トップで報道した。見るからにスクープ記事で、大きな反響を読んだが、その実「危機一髪で国会や社会の非難を免れたのです」と前澤さんは述懐する。大スクープなのに新聞協会賞などにも応募せず、社内の賞さえ辞退したという。

 前澤さんの『メディア展望』の記事は、単にこの事件報道の内幕を暴露しただけでなく、後年のメディア研究者らしく、この事件における報道の倫理について深く考察している。その一つは「取材源の秘匿義務」原則と報道との整合性の問題だった。鬼頭裁判官は事件の容疑者であると同時に情報源でもあった。「にもかかわらず、初めからその情報源のアイデンティティを明示したのです」と前澤さんは率直に問題点を指摘する。

 読売新聞ではこの報道をきっかけに元裁判官や検事、弁護士、メディア法の研究者とチームを作り、この「メディア倫理上の難問」に取り組んだという。

 その成果は「取材源なぜ公開したか——謀略電話と本紙の報道について」という社告で明らかにされた。二千字に及ぶ長大な記事で「その骨子は『取材源秘匿の義務は、新聞記者の生命だが、取材源と記者との間に通常存在する信頼関係がないので、国民の知る権利に応える報道の使命が優先する』というものでした」と前澤さんは記している。

 まだ企業のコンプライアンス(社会的信頼の順守)など議論の対象にならない時代のお話だ。

 この事件の後、前澤さんは80年代初め渡辺氏が論説委員長として論説委員会を統括するまで、論説委員としてリベラルな社説を書き続けている。ちなみに前澤さんには自身の書いた社説、数百本を収録した一冊の本がある。そのタイトルは渡辺主筆への批判を込めて『表現の自由が呼吸をしていた時代——1970年代読売新聞の論説』(コスモヒルズ社)。その一本が布川事件の最 高裁判決時(1978年7月3日)の社説だ。

布川事件

 布川事件は1967年、茨城県利根町布川で起きた強盗殺人事件で、近くに住む青年二人が逮捕され、一審で無期懲役の判決を受けた。その後、被告は無罪を主張し、上告していたが、78年、最高裁で上告棄却の判決が出され、刑が確定した。

 しかし、物証がなく、自白と目撃証言だけの判決に、前澤さんは社説で「えん罪の疑いをもたれている事件が、有罪間違いなしとされた」「事実関係でも、疑問に満ち満ちている」と最高裁判決を真っ向から批判した。獄中で偶々この社説を読んだ被告たちは「自分たちの主張を信じてくれる人がいる」と勇気を得て、二度にわたって再審請求を行い、2009年12月ようやく再審開始の決定を勝ち取った。

 再審決定後の被告の記者会見の冒頭、被告の一人が「ここに読売新聞の記者はいますか」と問うたという。居合わせた読売の記者が手を挙げると、被告は「あなたの会社の社説が本当に支えになりました」と感謝の言葉を述べた。社説には署名がない。その記者が社内で色々調べ、筆者が前澤さんであることを突き止める。そして翌年4月に前澤さんと被告の対面の機会を設け、大々的な記事を書いた。

 読売にとっては誇るべき美談であったが、掲載されたのは、茨城県版だった。前澤さんは、私に、「記事を書いてくれた記者に申し訳なかった。本来なら社会面トップのはずなのに」と打ち明けてくれた。編集幹部の渡辺主筆への忖度でこの扱いになったというのは、想像に難くない。社会面なら渡辺氏の眼に確実に触れるが、茨城版なら眼に触れることもなく、ちゃんと報道したという言い訳もできる。

 前澤さんの話では、渡辺氏が論説委員長に就任して間もなく、これからは新聞の倫理が問題になる時代だから、監査委員会で、じっくり研究してほしいと、前澤さんは体よく、論説委員会から追われ、監査委員会に移された。

 監査委員会の主たる仕事は、読者からの苦情対応と、毎日の新聞の審査だ。審査結果は社内のみに配布される日陰の存在で、全くの閑職だ。後年、渡辺主筆が『新聞協会報』のインタビュー記事の中で「社論に反する社説を書く論説委員に執筆を禁じた」との発言をめぐって、前澤さんが「社論に反する社説を書いたことはない」と名誉棄損で渡辺氏に対して訴訟を起こした。そんな経緯もあって、社内では前澤さんはタブー的存在になっていたのである。

 私のかすかな記憶で定かではないが、渡辺氏の論説委員長就任後、最高裁判決を批判していけないというルールが上から降りてきたと思う。もし記憶違いでなければ、新聞は冤罪に加担することはあっても、布川事件のように冤罪を晴らす手助けをすることはできない。

 もっとも、私の観察では前澤さんはしたたかな社会部の敏腕記者だった。監察委員になってから、渡辺主筆の指示を逆手に取り、世界各地に出張して各国のメディアの倫理制度を調査して歩き、定年退職後の大学での研究生活の基礎を築いた。

 追悼文がいつの間にか、前澤vs.渡辺バトルの紹介になってしまったが、前澤さんが常に報道のあり様、倫理を大切にしてきたからであって、自身の政治的目標のために報道を利用する渡辺氏と衝突することになってしまったのだ。

 時折り、週刊誌やタブロイド紙が反ナベツネキャンペーンを張る時、前澤さんにコメントを求めてきたそうだが、前澤さんはその都度きっぱり断っていた。神戸生まれの私などと違ってやはり読売ファン、巨人ファンだったと思う。野球の話はあまりしたことはないので、定かではないが、読売を人一倍愛していた。最晩年まで、フェイスブックなどで新聞批評を続けておられたが、朝日や毎日に対しても公平に厳しい眼を向けられていた。

 11月8日、私は前澤さんから、最後なってしまうメールを頂いた。そこにはこうあった。

 「昨日昼、新聞調査会へ応募作の修正稿を送ったとたん、心身衰弱ひどく、ほとんど寝たきりになりました。胃膨張感で全く食事がとれず、食欲の秋なのに<天高く空腹感を懐かしむ>です」

 新聞調査会の応募作とは、同会が募集した出版助成のプログラムで、前澤さんはそれに応募、見事当選していた。遺作となってしまったが、来年3月までに出版の運びになっているそうだ。テーマは『冤罪の深層』。本当に最後の最後までメディア研究に邁進されていたのだ。メールの最後は「キーボード打てるうちはメールします」とあった。最後の力を振り絞ってキーボードを打ってくれたのだろう。

 メディアに対する厳しい眼とは対照的に、わたしたち後輩や学生たちに向けられた優しい眼に会えないのは残念だが、93歳まで奮闘された人生だった。本当にお疲れ様、ご冥福をお祈りしたい。