NO.1592
厳密にいえば、ポピュリズムの定義が成立していない。論者によって、いろいろな視点から語られている。ここでは、政治的傾向の1つとしてポピュリズムを見つめ、その問題点を考えてみたい。
民主主義は、あまねく大衆が参加参画して作り上げる政治である。だから、政治変革を求める政党(勢力)が、現状の権力構造やエリート層(支配層)を対象として批判し、大衆に訴えて主張の実現をめざすのは当然である。
その主張が大々的に展開されるのは、おおかたは選挙時である。選挙戦となれば、最大目的は候補者が当選することにあるから、政治公約を論理的に明快に語るというよりも、聴衆の情動に働きかける傾向が強い。
最近の選挙戦では、SNSを効果的に駆使したかどうかが話題になった。それも大事であるが、演説者がじっくり丁寧に政策論を語るのではなく、アジテーションの効果を上げることに熱中しているのが気がかりである。
現実の政治を動かしている側と、それを批判する側のいずれが有利だろうか? 政治や社会のありように対して、不平不満を持っている人が多数派であることを考えれば、演説の景気がよいのは批判する側である。
批判は大事である。しかし、批判するためには、その前提として批判すべき現実の政治について、具体的に要旨を話さねばならない。それを省略すると、演説者と聴衆が異なる言論空間でコミュニケーションすることになる。丁寧に批判するためには、ただ政策を語るよりも時間が必要である。残念ながらそのような気遣いした批判論を聞くことはきわめて少ない。
短く語って、自分を支持してもらおうとすれば、話しやすい好都合の内容や、相手が好ましいと思われる話の展開になりやすい。選挙演説が、しばしば与太話に聞こえてくるのは、演説者に悪意はなくても、この大事な言論回路(批判の論と手続き)を省略するからである。
演説者は考えながら話し、聴衆は考えながら聞く、というのが優れたコミュニケーションを生む。立て板のごとく、講釈師のごとく語るのが雄弁ではない。言葉を拾い、とつとつと紡ぐようであっても、聴衆の思索を誘うような話し方こそが本来の雄弁術である。
本質を求めて語り、聞くという視点が無視されるのは、まさにポピュリズム的気風である。では、なぜそのような傾向になるのだろうか?
わが社会においては、アパシー(政治的無関心)が多数派だという。たしかに、選挙演説に聴衆がたくさん集まるのは珍しい。ちょっとした人出のある街角で演説しても立ち止まる人が少ない。投票率が低いのは当然である。
立候補者はアパシーを前提としてテーマ・方法をひねり出さねばならない。表現はよくないが、話の内容を充実させるよりも、いかにして耳目を引き立たせるかが最大の作戦になってしまう。掲示板騒動を起こしたり、なにかを宣伝するために選挙を利用するような手合いは、悪しきポピュリズムの見本というべきである。
もたもた書いてきたが、問題にするべきポピュリズムとは、政治的状況の結果ではなかろうか。すなわち、アパシーという土台の上に政治という建物を築こうとするからポピュリズムが支配的になるのではないか。日本人は英雄待望論が強いという。ついて行きたくなるような人物の登場を希う、ただし、英雄か偽物か、きっちり見抜く力があるかどうか。リアルにいえば、そんな人物はいないと考えるほうが安全である。
アパシーはポピュリズムの土壌である。ポピュリズムは大衆受け狙いのアジテーションが増産される。そして、ポピュリズム政治の先には、権威主義、ファシズム、全体主義が待ち構えている。
アパシーが支配するから、マガイモノ(ポピュリズム)政治に傾斜しやすい。お隣では戒厳令騒動が発生した。人々は直ちにNOの意思を表示した。アパシー社会であれば、人々はちょっと怪訝な表情をするだけで戒厳令が浸透していくに違いない。日本であればどんな展開になるのだろうか?
権力を道徳化することはできない。政治から権力を除去することもできない。ポピュリズム社会においては、いつも権力がむき出しになる危険性を抱えている。これだけは忘れたくない。
