筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
韓国大統領・尹氏の戒厳令騒動はなんとも割り切れない。
彼はもともと政治家経験がなく大統領の座に就いたが、法曹界出身でもあるから、民主主義のなんたるかを知らなかったわけがない。
しかも、戒厳令というものが妥当性を帯びるのは、よほど切迫した事情があってこそである。その前提からすれば、尹氏が起こした戒厳令事変! はあまりにも軽挙妄動である。
国の今後の在り方を左右しかねない意思決定を、国家機関の十分な審議も経ずして、ほとんど独断で突き進んだ。たまたま、野党や国民が臨機応変に対応したので、流血の惨事を招かず、事変の拡大が防がれたのだ。
しかし、たとえば空挺部隊が国会封鎖に成功していたならば、議会における戒厳令解除の決議が遅れただろう。その結果、国民と軍部・警察との対決関係が事変の傷口を一挙に拡大した可能性がある。ひとたび戒厳令の事実が定着すれば、原状復帰が困難になる。
そんなことを想像すると背筋が寒くなる。
日本で発生した事変ではないが、これを敷衍すれば、民主主義の脆弱さが間違いなく示されたというべきだ。もちろん、民主主義思想や制度自体が脆弱なのではない。民主主義に対する、人間の精神なるものの脆弱さである。
人間はだれでも、集団のなかで生きてきた。アリストテレスが、「人間は政治的動物である」と主張したのは有名であるが、理屈がわかったとしても、政治的動物であることがどんなに厄介であるか、だれもが理解しているわけではない。
なぜなら、個々の人間を形成しているのはエゴイズムによってである。一方、人間が集団を構成し維持できるのは、社交性が発揮されるからである。エゴイズムと社交性は極端にいえば対極にある。
エゴイズムは個人にあらかじめ備わっている性質だとして、社交性は他者とのお付き合いを重ねることによって育つ。しかも、それは個人が自発的に社交性を発揮するものである。
エゴイズムと社交性とは、自己主張と自己抑制の関係である。両者のバランスを効果的に取るのは芸術的である。現実の社会における個人をみれば、自己抑制が強ければ活力を失うし、自己主張が強ければ他者との摩擦葛藤に悩む。
国家なるものは、本来、個人が主体的に集まって構築するものであるが、実際は国家の秩序を維持するために、国家には権力が与えられている。権力に対する個々人の立場は平等である。
しかし、国家機関の要員となれば普通の個々人とは異なって、自身が与えられた範囲で権力を行使する。その要員の頂点に立つのが大統領である。
大統領は機関要員として権力の頂点にあるだけで、大統領に就任したある個人が権力を持つのではない。これは間違いなく理屈であるが、実際に権力の地位に就いた人間は、それが国家のものだということを忘れ、自分が権力者だと思い込んでしまう。
尹氏の事変は、まさに彼自身が権力であると錯誤していることに端を発する。これは、非常に危ない。ものごとの道理の理解できない人間に刃物を持たせてはいけない。
だから、与党国民党の韓東勲代表が、いちどは事態収拾を優先して、大統領弾劾に反対の立場を選択したものの、尹氏が戒厳令をわが保身のために行使していることを確信して、弾劾に転換したのは妥当である。
