筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
総選挙が始まった。野党の連携がしっかり成立しないのだから興味が薄れる。なにしろ、政治家なる人々は自分の売り込みに関しては、与野党問わずきわめて巧である。しかし、政権交代ができるか、できないか以上に、今回の選挙の最重要点は、与党勢力をどれだけ減らせるかにある。この程度のことは、みなさん重々理解しているはずだ。にもかかわらず、好機到来にあって、野党力を最大にするという戦略戦術が成功していない。
売り込み言葉たるや、わかったようなわからない言葉が氾濫する。選挙は葬式ではない。お経のごとくに眠りを誘う言葉を並べて繰り返しても、説得力がないのは当たり前だ。選挙はお祭りともいう。近づくほど面白いものだ。ただし、本当の面白さは賑わいの結果、新しい政局が誕生するにある。そのためには、途切れない巧みそうな弁舌の「性根」を見抜くのが大事だ。
昔、竹下登首相の弁舌は、言語明快・意味不明であった。なにを言っているのか、本当のところは話さないのだが、聞いていると、なんとなくわかったような気持ちになるらしかった。まあ、これもそれなりに政治家的芸当だといえなくもないのだが、話の中身がきっちり伝わらない弁舌は無意味にして有害だ。
石破氏は竹下氏の隣の県の人だが、もっちゃりとやわらかく話すスタイルはよく似ている。低姿勢的な面もしかりだ。さかんに訴える、「日本創生のための選挙」とはなにか、よくわからない。そもそも自民党の議員がぞろぞろと裏金という、脱税、背任をやったことが引き金の選挙である。日本創生などとは別次元である。国民の怒りに追い詰められた自民党が、「心を入れ替えますから、どうぞお許しください」という選挙である。
日本創生なる言葉の意味は漠然としている。創生だの再生だのという語感はよろしい。期待を持たせる。しかし、羅列した公約は、いわば、「よくすればよくなる」と、まさにお経を唱えているだけだ。1990年代から、政治・経済・社会の全面にわたって長期低落を続けてきた日本を創生する! しかも今の公約程度で! 政治改革という言葉もしかり。中身がない。
公明・石井氏は、「失われた信頼を、どの政党が取り戻せるのか問われている」と語る。失われた信頼の張本人は自民党、それを許した与党である。どの政党が取り戻せるのかなどと、他の政党におすそ分けしてもらってはいかん。問題のすり替え論法の典型だ。
維新・馬場氏は、「政治家の身を切る改革」を振り回すが、たとえば旧文通費をなくすることが身を切ることか。あほらしい。身を切るのではなく、特権を恣意的にしていたという反省を語らねばならない。いかにも大衆目線を強調するのが維新の得意だが、これなど、まことに上から目線で、その程度の認識ができないのではなにをかいわんや。
立民の野田氏は、野党連携を掲げて代表になった。しかし、4野党一本化は53選挙区のみだ。「時間が足りなかった」のは事実だが、だから仕方がありませんという理屈にはならない。立民が、かりに大躍進すればともかく、そうでなければ早くも代表の責任が問われかねない。
選挙の主人公は有権者である。これは建前である。建前が成立していないから、政治家が馬鹿囃子で選挙を乗り切って、またまた、百年一日の緊張感なき、堕落した政治を展開する。という歴史的事実を忘れず、言葉の意味不明に踊らされないようにしたい。