筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
明日が衆議院議員選挙の公示日である。
朝日新聞の「読者の声」を読んで考えた。いわく、――(今回の選挙において)有権者は(自民党の)裏金に目をつぶっても生活の安定を取るか、混乱覚悟で政治不信を払拭するのか。――
2009年、自民党が政権から転落した総選挙の際、マスコミは、「不満を選ぶか、不安を選ぶか」と選挙の性質を括った。自民党に不満だから民主党に投票するか。民主党に投票すれば不安だから自民党に投票するか。いずれにしてもリスクが高いとした。
結果は、民主党が政権を獲得したが、マニフェストに掲げたことを実現できなかった。不安が的中したというわけだ。その後政権を担った安倍氏が「悪夢の民主党」時代を喧伝したので、その効果も依然とし残っているだろう。
しかし、政権が交代したからといって即日から大改革ができるわけではない。大ナタを振るうには、自民党長期政権の総括をきちんとやって、それが国民次元にまで理解されねばならない。ちょっと考えただけでも大変な仕事である。
一方では、成果を上げろと声高の注文が続いた。民主党政権中に、東日本大震災が発生し、福島第一原発事故が起こった。まさに悪夢である。これが、自民党政権であれば、もっとうまく対処できたとは考えにくい。
当時の国会では自民党が、被災を国防問題に直結させて民主党を攻撃した。大震災と関連被害を少しでも早く効果的に対処するために全党挙げて取り組む気風が巻き起こってもバチは当たらないが、そうならなかった。悪夢の拡大である。
不満か、不安の選択かという対置は要領がいいようであるが、いかにも雑駁な感じを拭い去れない。
現状の生活が(もう少しよいほうへ)変わってほしいという気持ちが強いと思われる。いまの生活をこれ以上悪化させたくない気持ちと、いずれを選択するべきだろうか。考えてみれば、自民党の長期政権で、人々の生活はどんどん悪化してきたのではなかったのだろうか。
人間は元来現状維持的である。変わってよかった、と思えるのは変わった後である。変えるための工夫や努力をせずして変わることはできない。この10年ほどを見ただけでも、よくなったとはとてもいえない。これが、不安を避けた結果である。
変化するためには、摩擦や葛藤が発生するのは避けられない。しかし、ただちに変化=混乱と置いてしまうのは知的サボタージュである。
勤め人は徒手空拳である。一般論でいえば、失うものはなにもない。失うものを気にするよりも、現状をもっとよくすることはできないか。という思考を積み重ねるほうが新しい社会を建設するのではなかろうか。
生活の安定という美名にとらわれて、なにか大事なことを失念していたのではないか。それが、今日の日本的状況ではあるまいか。