週刊RO通信

官僚でなく、人間でありたい

NO.1584

 10月8日、袴田巌さん(88)の再審判決について、検察が控訴しないと発表したので、無罪が確定した。よかった! のではあるが、わたしは割り切れなさとおぞましさで気持ちがおさまらない。

 検察トップ畝本直美・検事総長名での談話によれば、――捜査当局が証拠を捏造したと認めた再審判決について、(その)証拠や根拠が示されていなので不満である。控訴すべきだが、(袴田さんが)長期間にわたる法的地位が不安定な状況に置かれていたことにも思いを致した。その状況が継続することは相当でない――から控訴しないのだという。

 これでは、まるでお情けみたいじゃないか! それだけではない。控訴はしないが、検察としては無罪ではないと主張しているように聞こえる。

 これに対して10日、袴田さんの弁護団が抗議声明を発表した。その内容き、静岡地裁に対して、談話内容の修正とともに、有罪立証した判断の誤りを認めて袴田さんに直接謝罪するよう求めた。無罪判決を批判した談話は重大な問題である。弁護団の小川事務局長は、「無罪になった人を犯人使いして名誉棄損になった判例が実際にある」と語気を強めた。

 これは10月11日朝日新聞(朝刊13版)の記事である。しかし、扱いは27面で、見出しも小さい。読者が注意しなければ見過ごす扱いである。

 9日朝刊では1面トップに、「袴田さん 無罪確定へ」という大見出しと、「検察控訴せず 捏造認定は『強い不満』」というサブの白抜き文字見出しで派手に報道した。さらに、2面、12面社説、26面本旨報道検証、27面と非常に大きな扱いをした。

 しかも、1面には東京本社編集局長名で、「当時の報道、おわびします」として、袴田さんが逮捕された1966年当時、朝日新聞は犯人視して報道していました。とお詫びを掲載した。いわく、事件報道は背の中の関心に応えるものたが、発生や逮捕の時点では情報が少なく、捜査当局の情報に隔たりがちです。これまでも捜査側の情報に依存して事実関係を誤り、人権を傷つけた苦い経験があるので、捜査や司法をチェックする視点を忘れず、取材、報道を続けてまいります(要旨)と結んでいる。

 朝日新聞も異例の検事総長談話に関心をもち、「問われる捏造捜査」という問題意識を紙面で報道しているにもかかわらず、談話の内容の重大性をすっかり忘れてしまったらしく、弁護団が10日に発した抗議の扱いは、まったく問題意識が弱い。弁護団は、捜査や司法をチェックして抗議を発したのである。「おわび」した、舌の根も乾かぬ2日後の報道がこの体たらくである。

 朝日社説(10/9)は「袴田さんの無罪判決 この不条理から何を学ぶか」とご立派な見出しを掲げたが、学ぶ気なんかまるでない。検察もだが、朝日新聞も似たようなものだ。

 厳しくいえば、徹底した官僚システムの警察・検察においては、「反省」がない。官僚組織において、反省する機能=フィードバックがなければ暴走するだけになる。それが検事総長の発言に示された。ということを、天下の大新聞が報道せずして、なにがオピニオンか。

 検察が面子を取り繕うために談話を出したという解釈だけでは足りない。検察・警察は自分たちの組織が社会秩序を守るのだと自負している。それはよろしい。ただし、戦後民主主義になったとはいえ、検察・警察が誤りを犯さないという保証はない。警察が証拠を捏造したとすれば、それは単なる誤りではなく、自分たちの無謬性を前提とした犯罪である。

 検察や警察のように一体性が強い組織は、間違いを犯しても速やかに発見し是正する働きが弱い。強固な官僚組織に働く個人は、どうしても組織規範に絡めとられて、「自分」を見失いやすい。個人、人間が消えて、官僚、官僚ロボットが幅を利かせやすい。検事総長談話は、58年間にわたって自由を奪っていた人に対して、言葉にまったく血が通っていない。まさに、検察マシン、検察ロボットではなかろうか。

 官僚主義が組織を支配するだけでなく、それが社会を支配することになったら暗黒だ。官僚主義が蔓延する社会は、すでにファシズム化している。無力の「私」なんか、組織に関わらないようにするしか活路はない。