筆者 高井潔司(たかい・きよし)
今年のノーベル平和賞に被爆者団体の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会」(被団協)が選ばれた。この選出でもっとも恥をかいたのでは朝日新聞ではないだろうか。
11日夕刻、朝日の夕刊が届いて開いてみると、その一面トップは「終わらぬ戦闘 平和賞の行方は」「中東での人道支援評価か」との見出しがパッと目に入ってくる。そして平和賞の有力候補として、「中東で活動する団体」として5つの団体名、さらに国連機関、その他の団体5つの名前が別表に掲げられていた。
記事を読んでいたら、スウィッチの入っていたテレビのニュース速報のシグナルが鳴った。そして「ノーベル平和賞に日本の被団協」の文字が流れた。朝日の別表にも本文にも全く登場しない被団協が受賞したのである。翌日の朝日を見ると、一面トップは、「被団協に平和賞」の見出しが躍る。これ以上の見出しはタイトルの「朝日新聞」を外さないとできないという大きさだ。一面の記事は目次以外すべてこの関連であり、さらに関連記事は2、3、4、5、8、28、29面にわたる。号外も出したという記事もあるが、夕刊の“誤報”に関する記事は全くない。今時、夕刊等取っている家庭はほとんどないから、そんな言い訳は必要なしか。
と書くのは、決して朝日新聞をあげつらうためではない。被団協の受賞は、受賞決定の連絡を受けた時の様子を見ても、当事者自身予想もしない驚きぶりだった。朝日だけでなくすべてのメディアも、そして私たち国民の側も予想していなかった。それは原爆投下から約80年を経て、被団協の運動や活動に対する私たちの参加や評価が年々低下し、軽視している現状を反映しているのではないか。
授賞が発表されて、メディアは一転して賞賛のオンパレード。政府は「誠におめでたいことで、心よりお祝いを申し上げたい」(林官房長官)と賛辞を贈った。だが、政府はこれまで被団協の運動にどれだけ応えて来たのか。
物理学賞や文学賞など個人やグループの努力とその成果に対し賞が贈られる場合、それはおめでとうと率直にお祝いの言葉を贈ることができる。だが、核の廃絶を訴え続けてきた被爆者の団体の受賞は、廃絶の目標が達成したわけでもないのに、おめでとうというのは、いかがなものか。ましてや被爆者の願いをよそに、アメリカの核の傘の下にこもり、世界的な核兵器禁止条約の流れに抗っている日本政府が祝辞を送るなどという資格があるのか。ブラックジョークではあるまいか。
ノーベル平和賞は、これまで反体制作家のソルジェニーツィン氏や劉暁波氏に与えられてきた。それはこうした作家たちを弾圧して来た政府への批判も込められてきた。今回の授賞決定理由にはけっして私の言うような批判の意味合いは書かれていないが、日本政府はもちろん私たちも被爆者団体などに対する低い評価を、改めて反省する機会としなければならないのではないか。
ロシア、北朝鮮、イスラエル、イランなどの核の脅威、核拡散の動きは、近年ますます高まっている。おめでとうとばかり言っている状況ではない。