論 考

本気の政治をやれ

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 1917年当時、考える力があり、感受性ある人たちは、人間性を失わずにいるだけで精いっぱいだった。――これは、ジョージ・オーウェルが残した言葉である。

 第一次世界大戦(欧州戦争)のさなか、すぐに終わるさと語っていた人々が次々に戦地へ出向く。すぐ終わるどころか、先々どうなるのか。誰もわからない。不安だけではなく、人間の馬鹿さ加減が嫌になる。

 当時の欧州は、世界の工場であり、頭脳であり、自分たちは素晴らしい世界に暮らしていると思っていたが、いままでの世界観、人生観がまったく価値のない幻想にすぎなかった。

 言葉の価値がない。軍事力をもつといっても、戦争がはじまると、有効な解決方法のはずがとんでもない。戦火が戦火を呼ぶ。正義の戦争と力んでみても、相手に対する説得力がない。沈うつと捨て鉢の雰囲気がどんどん膨らんでくる。短いがオーウェルの言葉は時代を切り取っている。

 連日報道されるウクライナや中東の戦争は、日本人が直接戦火を浴びるのではない。しかし、遠い国の話だと無視できる人はいないだろう。ショーペンハウエルは、人間は驚くほど他人の不幸に耐えられるとして、皮肉を込めて、自分が苦難をこうむらない限り、人は強いものだと語った。

 しかし、現代世界において、人の精神たるものはそれほど頑丈ではない。個人としては、もちろん平静を保っているが、直接戦火に襲われなくても、手が付けられない世界の事情が、どんどん日常の精神を圧迫する。

 人間はいくらでも残酷になれる。それを支えているのは憎悪であり、差別である。差別と憎悪の間はきわめて近い。直接交戦していない国々の間で、信頼が醸成されるどころか、次から次へと離反対策が講じられる。自分を守るという理屈だが、他国を敵と想定して手立てを講じるのだから、防衛策を強化すればするほど国家間の離反が進んでいる。

 世界情勢が危険に向かっているというのが、わが国政治家一般の認識らしいが、石破氏の所信表明演説に対する代表質問を聞いていると、実は、人々に向かって語っているのと本音が違うようだ。

 代表質問では仔細なやり取りができない。そうであっても、大問題を巡って意見を交わそうという程度の見識がほしい。

 アメリカ大統領選挙をみると、トランプ氏の社会に対する恫喝がますます酷くなる。それはアメリカ人の問題ではある。しかし、当選するためには嘘だろうが恫喝だろうがなんでもやる。というような人間が大きな支持を獲得している。はっきり言って、アメリカは危ない。言葉が大事にされず、権力を振り回すことに共感する気風が強すぎる。

 アメリカが世界の国々防衛を支え、アメリカを世界基準にするというのは、傲慢であり思い上がりが甚だしい。対等の付き合い以上に追従するのは、いずこの国に対してもやってはいけない。

 ジャーナリズムは、石破内閣に、日本の将来像を語れと注文する。その注文は妥当だ。ただし、石破氏個人の趣味嗜好を展開されてはたまらない。少なくとも、近代日本を歴史的に評価し、戦後80年の日本政治が歩んだ道を検証するために、真剣真摯な懐疑の視線を向けることができなければならない。

 裏金問題で遊んでいられるくらい政治家は暇なのか。公認するのしないのというような次元でもたもたやっているようでは、本当にこの国の将来が危うい。ボタンの掛け違え程度ではすまないのが日本的問題だ。