週刊RO通信

政党活動の原点

NO.1582

 なんとも長かった、代表選・総裁選が終わった。候補者諸氏が世間に向けていろいろ発信したが、つまるところは党内選挙だから、世間人としてはああそうなったかと感ずるだけである。しかし、いくつか考えたことがある。

 まず、人気ダントツの小泉氏が敗退したのは、ローマは一日にしてならず、中身のない巧な弁舌は見破られる。ご本人にも選挙人にもよい体験になった。石破氏が高市氏を僅差で制したのは、利害損得、合従連衡いろいろあったにしても、自民党的良識あるいは、バランス感覚が効いた結果であろう。女性初の首相誕生への期待があったとしても、極端な国粋主義をかざす人物に国政を委ねるべきではないからだ。安倍政治にも訣別せねばならない。

 総裁選後半に各候補者は、なにがなんでも票が欲しいので、派閥領袖や実力者詣でをした場面があったが、それがさらに突き進むと、自民党再生論議などは空文句、誰がやっても同じことになる。もっか、人事が進みつつあるが、石破氏はスタートから油断できない尾根伝いをしているようなものだ。

 本当の出発点は、早晩おこなわれる総選挙結果を待つしかない。そこで自民党が大々的に敗退しても、今回の総裁選の意義を考えると、総裁が変わっただけで自民党の不祥事が解決したわけではないから、石破氏の本当のスタートは総選挙以後である。その意味で、安倍直流を誇示する高市氏が、党・内閣へのポスト就任を固辞したのであれば、それなりに有意義だろう。

 この間、わたしは『村山富市回顧録』を読んでみた。社会党の村山氏は1994年6月30日から96年1月11日まで、長くはなかったが、自民党・社会党・新党さきがけの三党連立で政権を担った。

 社会党は1989年参議院議員選挙で、土井たか子委員長が大ブームを引き起こして圧勝した。皮肉なもので、それが引き金となって、社会党・公明党・民社党の社公民路線にひびが入り、93年7月総選挙では歴史的大敗を喫した。党内は内紛状態になった。

 92年には、佐川急便事件・金丸事件が重なり自民党は大混乱、最大派閥の竹下派が分裂して、小沢一郎氏らが離脱した。自民党も93年総選挙で大敗して、過半数を割った。細川護煕氏を首班として連立内閣ができたが、寄り合い世帯の連立はうまくいかず、94年4月に細川内閣辞任。引き継いだ羽田内閣も2か月の短命で、そのあとに村山内閣が誕生した。

 村山氏は「首相になるなど考えたこともない。与党経験もないし、大臣経験もない。ことわり続けたが仕方なく決断した」。一方では、見えないところで、社会党は崩壊に向けて拍車をかけていた。逆に、自民党は息を吹き返す契機となったのだから皮肉なものである。

 ここでは、政権の動向を語るのは目的ではない。村山氏の回顧録から、社会党という政党がなぜ凋落してしまったのか。おさらいするのが狙いである。

 実は、読む前からわかっていたことがほとんどだった。わたしは1960年代から社会党を見てきたが、当時から指摘していたことが一向に取り組まれてなかったことを再確認した。一言で片づけるなら党活動が存在しなかった。議員は議会活動と次の選挙で当選するための活動で手一杯。誰が党活動をやるのかというと、地方党員は多くはない。選挙といえば労働組合に「おんぶにだっこ」である。

 1964年、当時の書記長だった成田知己氏が、成田三原則を提唱し党活動の必要性を強く主張した。それ以来、足腰強くしなければいけないと一般論を語るものの具体的な取り組みがない。党活動といえば、セクト同士が内輪でもめまくっただけで、極めて非生産的だった。

 社会党結党以来1970年代まで、組合員が手弁当で選挙運動に走り回った。(これはいまの労働組合とは大きく違っていた。)だから、組合が力を失えば、社会党が失速していくのは当たり前である。

 国会活動分野でも、議員相互の勉強会・研究会、討論機会が圧倒的に少ない。人数が少なくなればなるほどお互いに対立する傾向にある。苦い話である。ダメになるべくしてなった。理屈が多いというが理論を磨き上げたということでもない。議員が個人的存在感にばかりこだわっているようでは、政党活動は期待できない。本気でチームを構築しなければ政党ではないのだ。