論 考

検察は面子のための控訴を止めよ

筆者 高井潔司(たかい・きよし)

 静岡地裁は9月26日、袴田事件の再審裁判で、確定していた死刑判決を取り消し、無罪を言い渡した。再審を決定してから10年、事件発生からだと58年を経て、袴田巌さん(88)はやっと殺人犯の疑いをそそぐことができた。

 今回の無罪判決では、重大な証拠とされた犯行時の着衣について、捜査当局の捏造と認定した。10年前の再審決定の際も、静岡地裁は捏造の可能性があると指摘していたが、今回ははっきりと捏造と認定した点で画期的な判決と弁護側はいう。この着衣は事件から1年後に犯行現場近くのみそ樽から発見され、袴田氏が犯行時に着ていたとされたが、再審決定から10年間、着衣に付着していた血痕の赤みが1年以上みそ樽に漬かっていて残るかどうか、検察・弁護双方の鑑定による攻防が続いてきた。しかし、着衣に赤みが残ろうが残るまいがそもそも捏造された着衣なら、この10年間は不毛な議論だった。

 裁判長は今回の判決にあたって、裁判が長引いたことを詫びたが、この間、目立ったのは検察側の抵抗だった。報道によると、検察の間では、今回の判決で捏造と認定されたことで、逆に控訴の声が出ているという。だが、これは検察の面子の問題に過ぎず、朝日も読売も一面解説で期せずして同じ見出しで「検察は控訴断念を」と訴えている。

 また朝日と毎日は当時の新聞報道を検証し、捜査情報に頼り過ぎ、いかに袴田氏を犯人視する報道に終始したかを、初めて反省している。実は、私は再審決定があった当時、桜美林大学で、「メディアと人権」という授業を担当しており、そのテキストの第10章で以下のように袴田事件を取り上げた。この記述を読めば、なぜ捜査当局が着衣を捏造しなければならなかったかが、今回の新聞報道よりもっと理解できるだろう。またこの当時の新聞報道が裁判官に対して有罪の心証を形成していったかも明らかになると思う。その意味で朝日と毎日の報道検証はまだまだ不十分だと言わざるを得ない。

         ◇

第10章 冤罪に加担した袴田事件

 袴田事件は、1966年6月、静岡県清水市のミソ製造会社専務宅で一家4人が殺害され、放火された事件。焼け跡から専務(当時41歳)、妻(同39歳)、次女(同17歳)、長男(同14歳)の遺体が見つかった。静岡県警は8月、同社の従業員の袴田巌・元被告(同30歳)を強盗殺人などの疑いで逮捕した。逮捕当初、袴田氏は全面否認し、黙秘権を行使していたが、20日目に県警は犯行を自供したと発表、起訴にこぎつけた。11月に静岡地裁で開かれた初公判では、袴田氏は全面否認した。だが、68年9月に同地裁で死刑判決を受けた。その後袴田氏側は、控訴、上告したが、いずれも棄却され、80年11月最高裁で死刑が確定した。

 しかし、この事件では、犯人とされた袴田氏が一貫して犯行を否認しただけでなく、不可解なことがいくつも積み重ねられた。例えば、第1審の裁判の最中の67年8月、犯行現場近くのみそ会社のみそタンク内から血染めの「5点の衣類」が突然、発見され、検察側は犯行時、袴田被告が着ていたとした着衣を、パジャマから新たに発見された衣類に変更した。

 さらに第1審で主任裁判官を務め、死刑判決文を書いた熊本典道氏(判決の翌年の69年に退官)が、後に自ら死刑判決に反対していたことに加え、警察の捜査段階の取り調べが一日16時間を超えた日があり、裁判でも検察側が提出した45通の調書のうち44通が不採用になったことなどを明らかにした。そして熊本氏らは、積極的に再審を要求する運動を支援した。

 日本の裁判制度においては、新しい証拠が見つかれば、裁判のやり直しである再審を請求することができる。しかし、この事件での再審への道のりは長かった。死刑確定の翌年81年4月に最初の再審請求を静岡地裁に起こしたが、94年8月に請求棄却、2004年8月高裁は即時抗告を棄却。08年3月最高裁も特別抗告を棄却した。弁護側はそれでもあきらめず、08年4月静岡地裁に第2次の再審請求を起こした。発見された5点の衣類には不審な点が多く、第2次再審では、衣類の鑑定が進められた。(発見された衣類のうちズボンは、大柄の袴田氏に履けなかった。『はけないズボンで死刑判決――検証・袴田事件』(GENJINブックレットから)

 その結果、5点の衣類の白半袖シャツの右肩の血痕と袴田氏のDNA型が、弁護側、被告人側の双方の鑑定人とも「一致しない」との結論を下した。そして2014年3月27日、静岡地裁は再審開始を認める決定を行い、袴田氏は事件発生から48年ぶりに釈放された。この再審決定で裁判長は「捜査機関が重要な証拠を捏造した疑いがあり、犯人と認めるには合理的な疑いがある」「拘置の続行は耐え難いほど正義に反する」とまで述べた。

 再審はまだ開始されていないが、無罪になることは確実視されている。事件は生から48年、再審の請求からでも決定まで33年かかったこの事件は典型的な冤罪事件と言えよう。再審決定で指摘されたように、重要な証拠が捜査当局によってでっち上げられた可能性が高いから、冤罪の責任は第一義的に捜査当局にある。

 しかし、当時の報道を振り返ってみると、事件当初から袴田氏を犯人視する報道が繰り返され、冤罪を助長した責任はメディアの側にもあると言わざるを得ない。理論編で述べたように、報道による人権侵害が本格的に指摘されるようになったのは1980年代以降である。当初の袴田事件報道はそれ以前のことであり、現段階で当時の典型的な“犯人視報道”を振り返ってみることは、「メディアと人権」の問題を考える上で、いい教訓になるだろう。

警察にべったりの当時の新聞報道

 大学図書館のデータベースで当時の新聞報道を検索してみよう。現在では「袴田事件」をキーワードに検索できるようになっているが、当時はそう呼ばれていない。袴田事件と言われるようになったのは、日本弁護士連合会が再審請求運動を支援するようになってからだ。新聞社によっては、データベースを更新して、発生時から「袴田事件」で調べることができるサイトもある。

 この事件は当時、一家四人を殺害して放火する凶悪事件として注目され、事件の発生だけでなく、捜査の進展もかなり詳しく報道された。事件発生から5日目の7月4日の各紙夕刊には有力な容疑者が浮かび、警察が重要参考人として4日朝から本人の取り調べを開始したと報じている。4日付読売新聞夕刊では「清水の殺人放火 有力な容疑者 血ぞめの手拭い押収」との見出しで、現場近くのクリーニング店に、ミソ販売会社橋本商店の住み込み従業員が血のついたパジャマを持ってきたとの店からの通報を受け、捜査本部が「4日朝、パジャマの持ち主、同商店製造係某(30歳)ら、住み込み従業員4人を重要参考人として取り調べるとともに、橋本商店事務所、工場、従業員寮などを家宅捜索し、パジャマをふいたとされる血のついた手ぬぐいなどを押収した」と、早々と袴田さんに的を絞って捜査していることをにおわしている。

 しかし、翌5日の朝刊は「従業員帰宅させる」の見出しで、4日午後11時30分まで事情聴取したが、結局決め手がなく自宅させたと書いている。しかも県警捜査一課長の記者会見での話として、「はっきりした証拠がなく、またはっきりとした恨みなどの動機も見当たらない。衣服についているのは返り血をあびたというような多量の血こんではないが、5日以後、某の血液型を調べ被害者4人の血液型と照合するなど、さらに事情を聴くようになるかもしれない」と報じており、手がかりの少ない舞台裏が明らかになっている。

 この時点で新聞社が冷静であれば、捜査当局の見込み捜査の誤りをチェックするチャンスになったはずだが、紙面からは有力容疑者を帰宅させた捜査当局の無念さに同情する姿勢が読み取れるだけで、捜査への疑問がうかがわれない。

 事件発生から50日目の8月18日、警察は袴田さんを連行し、再び取り調べを行う。各紙とも社会面のトップあるいはそれに準ずる扱いで、「袴田を連行、本格取り調べ」「夕刻までに逮捕」(毎日)、「従業員『袴田』逮捕へ、令状とり、再調べ」「寝間着に油、被害者の血?」(読売)などと、まだ参考人としての聴取にもかかわらず、実名で報じている。1980年代の半ば以降、日本では人権意識の高まりから、参考人や容疑者について、実際に裁判にかけられるまで、あくまで容疑を掛けられたに過ぎず、犯人扱いするような報道をしてはならないということが定着した。しかし、当時はまだまだ犯人視報道が目立った。参考人の事情聴取でも実名で呼び捨てである。

 実はこの日の段階でも、袴田さんを犯人とする根拠は事件発生4日目とほとんど変わっていない。したがって、メディアがもっと冷静であれば、この日の事情聴取のための連行――逮捕状の執行という流れに疑問を呈する報道があってもおかしくない。読売の見出しにある「寝間着に油、被害者の血?」などというのは、4日目の記者会見で「返り血を浴びた」というような量ではないと捜査の責任者自身が否定していたものだ。実際、逮捕の段階ではこの寝間着(パジャマ)は犯行時に着ていた決定的証拠とされているのに、すでに紹介していたように約1年後、裁判の進行中に、犯行時に着ていたとされる別の衣類が見つかって、全く取り下げられることになった。つまり、逮捕時の寝間着(パジャマ)に付着していた血とか油はあまりにも微量で、犯行を裏付ける証拠とならないことを、逮捕時から捜査当局は悩んでいたのだ。

 そう振り返ってみると、犯行4日目に捜査責任者が記者会見で述べたことが、全てを物語っているのだ。つまり、袴田犯人説は当初の報道を見ても極めて根拠が薄いということだ。

リークによって形成された「ボクサー崩れ」のイメージ

 そこで捜査が難航する中で、捜査当局はマスコミに様々な情報をリークして、袴田さんが犯人であるとのイメージを作り出していく。「科警研の官邸で、パジャマには袴田と血液型の同じB型のほか、藤雄さん(被害者の専務)のものと見られるA型と長男雄一郎君のものらしいAB型の血液が検出されている」(読売)、「パジャマの足のあたりに付着した油を鑑定したところ放火の際使用された混合油と合致した」(毎日)、「月給3万円のうち1万円を子供の養育費に送って生活が苦しいうえ、バーを開店した際の借金70万円を返済しなければならず、6月29日藤雄さんが集金した48万円を自宅に持ち帰ったのを知っていて、この金を狙った」(朝日)など警察がリークした状況証拠ばかりを列挙する報道を展開し、その内容を全く疑うこともなく、逮捕を正当化している。だが、以上のような報道内容はまだ冷静な方だ。

 袴田さん連行の場面を報じた毎日は「不敵なうす笑い」という見出しを付け、「フトンのなかでたたき起こされたのだろう。袴田は寝ぼけまなこをこすりながら、シャツにズボン下のままで階下に下りてきた。心持ち青ざめゆがみそうな表情だった。ふだんは『たばこは吸わない』といっていた袴田が、そのときばかりはプカプカとせわしげにたばこを口にする。心の動揺を押さえようとするあせりが強くにじんで見えた」と書き、読売は「袴田はこの朝6時30分ごろ清水署に連行されたが、クリーム色の半そでシャツ、茶色のズボンとさっぱりしたふだん着でうす笑いを浮かべ、むしろ連行した刑事の方が緊張した表情だった。そして間もなく同署調べ室で調べが始まったが、犯行を全面的に否認した」と書いて、ともに袴田さんが犯人であることを前提にして、そのふてぶてしい表情を憎々しげに描いている。

 朝日は「事件後の袴田はふだんとまったく変わらず、18日朝任意出頭を求められた時も終始にこやかな表情。清水署に連行されてからも笑顔さえ浮かべていた」と比較的穏当な表現だったが、実は連行の記事に合わせ別の原稿で「バンタム級6位にもランク 身持ちくずした元ボクサー」と、現在で言えば職業差別の記事を掲載し、袴田さんをいかにも犯人視した。実は、警察は、被害者の藤雄さんが柔道2段の体力を持っていた人で、それと対抗できる内部の人間はボクサー出身の袴田さんしかいないと目を付けていたのだ。以後、“ボクサー崩れ”にありそうな犯行として袴田事件は見なされてきた。

 ボクサー界はこうしたボクシングに対する偏見に抗議し、袴田事件の再審に向けて袴田さんの支援活動を行ってきた。それは日本だけでなく、海外からも支援の手が差し伸べられ、再審決定後、世界ボクシング評議会(WBC)は袴田さんに名誉チャンピオンベルトを贈っている。

自供に追い込む過酷な取り調べも、捜査陣の“粘りの勝利”

 袴田さんは逮捕後も厳しい強圧的な取り調べに対しても否認を続けたが、逮捕から20日目に犯行を認めるに至った。現在では、通常、そうした調べ途中の自供を報道することはないが、袴田事件では警察もマスコミもよほど自供を待ち望んでいたのか、9月7日付読売朝刊は「『袴田』自供始める 逮捕から20日目」と報じている。この記事では8月18日の逮捕後、「がん強に否認を続けてきたが、逮捕からまる20日目の6日午前11時ごろ犯行を認めた」とし、さらに「この日取調官が逮捕のきっかけとなったパジャマについていた血液について聞いたところ袴田は下を向いたまま涙を浮かべ『血液は犯行のときついたものです』と答えた。『やっぱりお前の犯行ではないか』ときびしく追及すると袴田は『あの事件は私一人がやったことです』とうなだれた」と書いている。

 さらに7日の夕刊にもその続報が掲載される。夕刊は「騒がれて逆上、犯行 袴田、全面自供始める」とう大きな見出しで、「6日夜、清水署特捜本部松本警部らの追及で、4人を殺したことを全面自供、しかし動機については、依然話さなかった」と報じている。

 7日付毎日新聞の報道はもっとすさまじい。社会面のトップで、取り調べを終えて頭からシャツをかぶって留置場に向かう袴田さんの写真を掲載し、見出しだけを見ても「袴田ついに自供」「『金欲しさにやった』ねばりの捜査69日ぶりに解決」「“パジャマの血”でガックリ」「葬儀の日も高笑い “ジキルとハイド”の袴田」と、捜査当局を賞賛する一方で、袴田さんを二重人格の異常者扱いしている。

自白は過酷な取り調べの結果

 のちに、第1審の熊本・元主任裁判官が当時、留置場日誌を調べたところ、9月4日の取り調べ時間は前日の9時間50分に対し、16時間50分。さらに5日は12時間50分、6日は14時間50分と長時間にわたる。これを「ねばりの捜査」と言えるのか? 袴田さんが獄中にある時、出版された書簡集に袴田さんはこう記している。

 「私に対する取り調べは人民の尊厳を脅かすものであった。殺しても病気で死んだと報告すればそれまでだ、といっておどし、罵声を浴びせ棍棒で殴った。そして、連日2人一組になり3人一組の時もあった。午前、午後、晩から11時、引き続き午前2時まで交替で蹴ったり殴った。それが取り調べであった。目的は、殺人・放火等犯罪行為をなしていないにもかかわらず、なしたという自白調書をデッチ上げるためだ」

 捜査の経緯について、詳細に報じるのが日本のマスコミの特徴だが、それは多くの場合、警察のリーク情報に頼ってしまう。もし公正な対等報道であれば、容疑者の側からも取材し、報道する必要があるが、容疑者は警察に拘束されていて本人から取材することは不可能だ。ならば取り調べ中、接見する弁護士や家族などからも話を聞くべきだが、そうした報道は全く見られない。

 袴田事件でもっと弁護士サイドから取材していれば、接見時間が極めて少なく、逆に取り調べがいかに過酷だったかが多少はわかろうというものだ。自供の際の報道を見ると、自供した時間や取り調べた警部の名前まで書かれている。全く警察の言いなりの情報である。その一方で、動機について語らないとしたら、とても全面自供とは言えないはずで、報道機関として本来やるべき検討と指摘がまるでない。

 熊本元主任裁判官が明らかにしたところでは、自供に基づいて作成されたとされる調書には当初、袴田さんと被害者の藤雄さんの夫人が不倫関係にあって、夫人に依頼されて藤雄さんを殺害したと自供したと書かれてあった。その後動機は転々とし、金目当ての犯行となる。そのように動機でさえ、転々と変わるのは、長時間に渡る強圧的な調べがあったに違いないと熊本氏は推測したのだ。読売の記事中にある「動機については語らない」は見方を変えれば、そうした取り調べの裏側を示唆しているのだ。

 しかし、袴田犯人説を信じて疑わない記者にはリーク情報に全く疑問をさしはまさないのだ。当時の記事を読むと、リーク情報からでさえ詳細に検討すれば過酷な取り調べの一端が見えてくる。熊本元主任裁判官をメインにして袴田事件を描いた『美談の男――冤罪・袴田事件を裁いた元主任裁判官・熊本典道の秘密』で、筆者の尾形誠規氏は「4人が惨殺された凶悪事件である。新聞・テレビが騒いで当然なのだが、その報道姿勢は、警察の情報を鵜呑みにした、一方的かつ暴力的なものだった」と解説している。

無視された判決の「付言」

 袴田事件裁判は3人の裁判官による合議制で、無罪を主張していた熊本裁判官は本意ではないが多数決の結果として死刑判決の書面を作成した。その際、交換条件として、判決に対する付言を付けることを要求し、付言の中で捜査当局のずさんな取り調べを批判した。それは2審以降の裁判で無罪判決が出るよう意図した内容だった。しかし、死刑判決を報じた新聞によってほとんど無視された。

 「付言」に触れたの、朝日新聞だけだった。朝日によれば、「付言」は自白の任意性について、「長時間の取り調べで強要されたもの」と指摘し、「この事件の捜査は戦後ほかに例をみない手落ちのある捜査だった」と検察側をしかったと報じている。だが、他社が全く報じなかったことで、ここでも冤罪事件を見なおすチャンスを新聞は見逃した。

再審決定の朗報――なかった当時の報道への反省

 しかしながら、再審の請求以降、ちょうどメディアの人権尊重の流れにも呼応して、袴田事件報道にも大きな変化があった。2004年、第1次再審請求の抗告が棄却された時、毎日新聞の社説は、棄却決定に10年もの日数がかかったことを批判して以下のように書いている。

 「取り調べで犯⾏を⾃供したとされる袴⽥死刑囚が静岡地裁の初公判で否認に転じた後、⾃⽩強要の違法性や捜査のずさんさが次々と指摘された。犯⾏を認める供述調書が45通も作成されたのに、同地裁は⾃⽩偏重捜査によるものと批判して44通を証拠採⽤せず、残る1通だけを有罪の有⼒証拠と認定するという異例の展開ともなった。

 この経緯が捜査への信頼を損ねたことだけでも、当時の捜査当局の責任は重い。偶然なのか、同県警は本件の前に、死刑判決確定後に再審無罪となった島⽥事件などの誤認逮捕や捜査ミスを連発させ、社会の批判を浴びていた。本件捜査では汚名返上のため科学捜査を駆使したと強調されたが、その実は戦前の⾃⽩偏重主義から脱却できていなかったに違いない。

  振り返れば、これまでに死刑判決の確定後、再審無罪となった免⽥、財⽥川、松⼭、島⽥の各事件でも⾃⽩に頼った強引な捜査が冤罪(えんざい)を招いた、と批判されてきた。⾃⽩重視の捜査が冤罪の温床であることも、繰り返し指摘されてきた。これは過去の問題ではすまされない。捜査当局は多くの反省や改善を踏まえているとはいえ、今も密室で被疑者の取り調べを続けており、⾃⽩を強要される危険性はふっしょくされていない。

 この際、取り調べの録⾳、ビデオ録画による捜査の透明化を⼀気に進めたい。本件でも、もし、取り調べ状況を客観的に判断できる録画などがあれば、⾃⽩の任意性、信⽤性を争って法廷で時間を費やす必要はなかったはずだ。裁判所が一貫して45通中の1通だけを証拠として採⽤したことの当否も明確になるに違いない」。

 この論説の指摘通り、捜査当局や司法当局の不手際が目立つ。だが、毎日社説で指摘している45通の供述調書の内証拠として採用されたのはわずか1通だったなどの点は、実は、69年の静岡地裁での当初の死刑判決の際にも「付言」で取り上げられており、それは判決言い渡しの前に読み上げられたことだ。当日の毎日新聞は全くこうした点を見落としてきた。それどころか、袴田氏の逮捕やその取り調べについて、警察の発表やリークをそのまま取り上げ、犯人視報道=冤罪への加担を先頭に立って、紙面で繰り広げてきた。そうした点に全く論及しないで、捜査当局や司法当局を批判することが、どれほど説得力があるだろうか。

 しかしながら、この再審棄却決定の前後から、各社の論調を見ると、袴田事件の冤罪説をはっきり打ち出し、2014年の再審決定を引き出すことにつながる報道が目立つようになっている。例えば決定直前の94年8月6日付毎日新聞の静岡県版では「いのちへの扉」と題する連載記事を開始し、第1回目の「検証・袴田事件再審請求/上 はけないズボン」では、すでに紹介した犯行時の着衣の疑問点を正面から取り上げている。

犯人視報道への反省は十分か

 再審の決定によって、50年近い監獄生活から解放されて、新聞各紙は警察、検察の捏造疑惑、冤罪について、厳しい追及の論陣を張っている。「過ちはすみやかに正せ」(2014年3月28日朝日社説)、「捏造疑惑誠実に対応を――江川紹子さん寄稿」(同日東京新聞1面)と、再審決定までに長時間を要した裁判所に対しても苦言を呈している。しかし、マスコミ自身の当時の報道に対する反省の念は全く聞かれなかった。

 興味本位の週刊誌報道に比べ、確かに日本の新聞、テレビ報道は、1980年代半ば以降、人権に配慮し、その報道表現などで、改善を進めてきた。しかし、犯罪報道は依然として詳細に捜査の経過を報じている。そのために報道は警察、検察の情報に大きく依存している。その一方で、捜査、司法当局が依然として冤罪を引き起こす体質を残しているとしたら、報道がその片棒を担ぐことになるという構造も変わらないことになる。実際、松本サリン事件などで、捜査当局の情報に振り回され、報道被害を依然、繰り返している。袴田事件の再審決定は、こうした報道のあり方も再検討するチャンスであったのだが、その報道ぶりを見る限り、反省は十分とは言えまい。

 改善点として挙げるなら、警察情報だけに頼るのではなく、容疑者や被告側の声もしっかり取材して、多角的な情報発信を行うことだろう。袴田事件以降に発生したいくつかの冤罪事件で、メディアの報道がその冤罪を晴らす上で大きな役割を果たした事例もかなりある。現在も冤罪の疑いのある事件を検証取材し、その解決に奮闘する記者がいることも紹介しなければ、バランスを欠くだろう。