NO.1581
アメリカの大統領選挙は他国のことであり、選挙自体をどうこう取り沙汰するのが目的ではない。しかし選挙戦、とりわけトランプなる人物が引き起こす騒動のなかに、無視しえない重大な問題をみる。
トランプ語は嘘・ほら・はったり、演説たるや与太話の集積で、上品さを欠くアジテーションである。まともな話がなくはないが、それを抜き出すには苦労するという奇妙な具合だ。
トランプ支持者は、ワシントンのエスタブリッシュメントを攻撃するトランプに拍手喝采だ。つまり、トランプが反エリート主義であるから共鳴する。ところがトランプは、権力を独占したい。大統領権限をさらに強化したい。連邦政府職員を臣下のごとくに手駒にしたい。政府機関を大幅改編したいだけでなく、司法も中央銀行FRBも指揮下にしたい。つまり、大統領をトップとする単一政府理論というよりも、露骨に独裁者をめざしている。
権力独占の独裁者は、超エスタブリッシュメントであるから、トランプ支持者は、反エスタブリッシュメントを期待しつつ、その正反対の独裁者を生み出そうとしている。しかも熱狂するのだから、奇妙奇天烈な光景である。民主主義は独裁者を拒否する。だから、トランプが大統領に返り咲くことによって、アメリカは民主主義ではなく、独裁者による全体主義へ突き進む。
民主主義を十分に理解しているはずの人々が、なぜ、全体主義を警戒しないのだろうか。全体主義とは、個人に対して全体(国家・民族)が絶対的優位にあるという主張だから、諸個人は全体の首魁である独裁者の意のままに行動することになる。反エスタブリッシュメントの誇り高き人々が、コロリと欺かれてしまう。全体主義の秘めた力はどこから出てくるのだろうか。
1950~60年代の欧米は反全体主義論が活発であった。大きい理由は、第二次世界大戦の惨禍をくぐった人々が、再び戦争の苦しみを味わいたくない。もし第三次世界大戦が起これば、米ソが開発してしのぎを削っている核兵器によって、人類も地球も壊滅してしまう。歴史は繰り返すなどと悠長なことを言ってはいられない。死の淵に近づかないために、知識人の発言が全開したようであった。いまとは、まったく雰囲気が違っていた。
戦争は国家同士の暴挙である。戦争は、まさしく国家主義そのものが猛威をふるう。人間の尊厳に立脚した個人主義=民主主義の実践こそ反全体主義、反戦平和の世界に不可欠である。人は、なによりも自由を尊重し、追求するはずであるのに、どうして全体主義に絡めとられるのか。
全体主義と民主主義を並べてみれば、だれでも個人の自由が尊重される社会を好む。どうやら、全体主義の落とし穴は、理屈そのものではなく、人が自身の内部に抱懐しているなにかが作用している可能性が高い。
人にとって自尊心こそが自立的精神の柱である。もし、自力で自尊心の保持が不可能になったとすれば、人は自分以外に自尊心のよりどころを求めるのではないか。よりどころとなるものは、たとえば聖なる大義である。生き方に煩悶した青年が生き方のすべてを指図してくれる! ナチに飛び込んだ。なんでも知っているような素振りをする指導者に自分を委ねてしまう。あるいは集団、組織、民族、国家などに忠誠を尽くすことによって、「滅私」すれば、自身の生き方に葛藤する苦悩はなくなる。滅私も安直ではない。しかし、自分が自分自身であろうとすることは、もっと大きな闘いであろう。
M・ウェーバー(1864~1920)に、詩人S・ゲオルグ(1868~1933)が質問した。「すべての人間が自分自身の審判者であろうとすると、あなたは思いますか?」、「すべてがそうだとは思いませんが、そうなるように彼らを成熟させることが究極の目標だと思います。」ウェーバーの『職業としての政治』や『職業としての学問』を読んで、強く働きかけてくるのは、この精神である。もちろん、学生時代だけのことではなく、生涯にわたる自分自身の偉大な課題であろう。
アメリカ大統領選挙で、人々が本当に問われているのは、自分の自尊心を自分自身がたしかに保持できるか、というまことに哲学的な問いかけなのではあるまいか。さて、こちら日本的政治状況が「ゆるい」のは事実であるが、日本的全体主義という視点から考えると、やはり気持ちが落ち着かない。