筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
兵庫県知事・斎藤氏に対する不信任決議が満場一致で可決した。新聞報道以上の仔細はわからないが、少なくとも、議会と各党派は斎藤氏を知事として認めないのであって、知事一人への投票よりも議員全員に寄せる投票が圧倒的に多い。
県職員の知事に対する信頼はすでに回復しないところにあるし、県民からの抗議の電話も半端ではないらしい。斎藤氏の立場は万事休すなのだが、本人はなにか期するところがあるらしくギブアップしない。
常識的には、県議会解散に出るよりも、知事が辞任するほうが妥当である。なぜなら問題を引き起こしたのは斎藤氏自身だからだ。
映像でみる斎藤氏の表情はポーカーフェイス、いや仮面的に動かない。周囲で自分について取り沙汰される議論は、聞いているが聞いていないようである。つまり、なにか、一心に思いつめているようである。
県議会解散となれば、40日以内に新しい議員が選出される。その議員たちが再度不信任案を可決すれば斎藤氏は知事の地位を追われる。ただし、まったく同じ議員が選出されることはないから、場合によっては、新しい議員による不信任案が可決されないという可能性もなくはない。ならば、斎藤氏は難破寸前から立ち直るという次第である。
ただし、約1年で任期が切れるが、再選の芽はなかろう。自維など推薦した党派はすべて離反している。それでも、自身の去就について意思表示しないのは、いささか奇妙でもある。1日でも長く在職したいということだろうか。それでは、いかにもいじましい。
今回の騒動でつくづく考えさせられるのは、一度選出した知事の首は容易に切れない。有権者は、いま問題になっているような人物だと知っていて投票したのではない。スーパーで衝動買いしたのと同列にはできない。知事選挙の投票率は概して低いが、マガイモノを選出してしまったら始末がわるい。
そういえば、首相であった安倍氏が、とことん追い詰められても、逃げまくって、ついに逃げおおせた前例がある。まったく同じではないが、斎藤氏の意識に安倍氏の逃げざま! が鮮明に刻印されているかもしれない。
告発に対する違反、批判されている行状は横へ置いて、斎藤氏のリーダースタイルについて考えてみた。
リーダーは他者から見られる側面と、自分が見る側面の2面がある。この2面をおろそかにすると斎藤氏のように失敗する。
斎藤氏は、見られる側面において少なからぬ批判を食らった。どうも知事職を王様のごとくに錯覚していたようだ。たしかに知事は県政府においては最高権力者である。しかし、その権力は斎藤個人にあるのではなく、県民の意識を代表しているという前提に基づいている。ここで同氏は誤った。
県知事は、県民ピラミッドの頂点にあるのではない。便宜上ピラミッドを想定するならば、それは逆ピラミッドである。知事も職員も県民に対する奉仕者であるから、県民ピラミッドの上に立つのではなく、下に立たねばならない。これが民主主義である。斎藤氏は、戦前の県知事のように、ピラミッドの頂点にあると錯覚していたのである。
職員に指示命令するにしても、県民の意を呈したものであるべきだが、同氏はその一番大事なところを無視して、自分個人に対する奉仕を要求したわけだ。
つぎに、斎藤氏は見る側面を大切に考えていなかったようだ。リーダーは、自分の部下が公正な仕事をしているかに目を配らねばならない。しかし、全員に目配りすることは不可能だから、自分の位置に近いメンバーを通して全体を把握するように努力する。
実際、これは非常に難しい。周辺の部下がイエスマンや茶坊主になりやすいからである。斎藤氏の周辺が牛たんクラブ(東日本大震災で知り合い)といわれて嫌われていた事実から、すでに見る機能がしかるべく活動していなかった。そしてまた、それが、告発に対して自己防衛策に走る原因の1つでもあった。
組織理論が戦前同様のピラミッド組織意識であって、しかも、失敗するリーダーと周辺の典型的なパターンを辿っていた。なおかつ、強固なはずの周辺シンジケートが崩壊するところまで突き進んだのだから、なんとも打つ手がない。
斎藤氏の場合は、ポンチ絵に描いたような人事管理思想と実践の失敗であったというべきだ。選挙に勝つことはできても、着実に仕事を達成していくためのリーダーたるかどうかとは別である。
選挙民にとって、本当に仕事ができる候補者かどうか見極めるのは難しい。政党が支持するかどうかは、選別材料の1つである。今回、斎藤氏を推した自民も維新も斎藤氏を切ったが、想定外だったと逃げを打つのは妥当でない。まだ決着していないが、兵庫県政混乱の責任の一端が自分たちにもあるということを忘れないでもらいたい。