筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)
薦められて経営書を読んだ。テーマの前提となる認識の誤り、言葉の定義の無さ、論理的誤りなど、読んで辟易した。著名な経営者の著作、もっともらしい出版社のプロデュースであり、売らんかな、儲からんかな、の意図が透けて見えた。経済ないし経営の側にいて、それを生業としていると、行き詰まりを見せる現代社会の問題の本質を捉えていないという自覚を持たなければならない。
経営書を読んでみる
労働組合時代の後輩が、ある経営書を読み、私の感想を聞きたいと、SNSで伝えてきた。彼が言うには、この著作は、実業界からの重みのある提言だという。これも一つの勉強の機会だと思い、その申し出に応えることにした。
書名は、『文化資本の経営』(注1)である。経営学において、「人財、人間関係、共有価値観、企業文化、知識等」は、財務諸表に表せない見えざる資産といわれる。著者は、それを「文化資本」と称し、それをもとに、社会に文化的に良い影響を及ぼす商品を生産する経営を築こうと提起する。それが、経済価値至上で、行き詰まりをみせる今日の経済社会の問題を打開することにつながり、経営の持続可能性を支えるとする。
私は、そもそも「文化資本」という造語が納得できなかった。(後述)また、経営コンサルタントによる巻頭解説から、本編全体にわたって、論理的に曖昧なことを書き連ねながら、「文化資本経営」は、この時代にあって重要なのだという、結論ありきの傾向に、私は少し辟易してしまった。
この経営書の問題
かいつまんで、私なりに、この経営書の問題を挙げてみた。
一つは、「文化資本の経営」の重要性を位置づけるにあたって、その巻頭解説における認識に問題がある。それはまず、今日の経済活動が、自然と社会を分離し、経済価値のみを優先してきたがゆえに、自己破壊的な行き詰まりを迎えていると。そしてそのことは、今日の停滞する日本経済の要因でもあるのだという。――ここには論理の飛躍がある。
そしてこの日本経済を、再び成長させるためには、経済を、人間や生物に取って、より良い自然ないし社会に再構成するものに転換すべきであって、それを担えるのが、「文化資本の経営」なのだとする。――しかし、停滞する経済とは、資本主義に内在する問題であり、資本の過剰、生産の過剰による利潤率の低下という問題ではないのか。また、自然と社会を分離しつつ(資本が、それらの維持発展を埒外とするという意味だと思われるが)、それを利潤獲得の手段として貪るのが資本主義であり、「今日の経済活動の自己破壊的な行き詰まり」と表現されることは、資本主義の問題だ。にもかかわらず、この経営書には、資本主義ないし資本主義社会の問題については、一切触れられてはいない。
二つ目は、全体として言葉の定義を明確にしていない。代表的なものは、書名ともなっている「文化資本」という言葉だ。そもそも、文化をどのように定義するのかは、一度も出てこない。文化とは、人類の理想を実現していく精神活動の総体(広義の概念)であり、人びとが、どのように生き、何を大切にしていくかとして選択され、共有され、継承されてきたものである。
だとすれば、文化の存在目的は、人間である。そして、資本とは、経済価値を際限なく増殖し、蓄積していくという衝動を、本質的に有するものだ。それゆえに、資本にとって、人間は一つの手段と化してしまう。このように、文化と資本は、存在目的において次元を異にしており、これらは接合しえない概念ではないのだろうか。また、著者が「文化資本(見えざる資産)」と称するものとは、資本(経済価値)の投下により生み出されたものであり、重ねてこれを資本と称することに、合理性がないと私は考える。
加えて、本論の中には、この「文化資本経営」を構成すると思われる造語がいくつか出てくるが、同様に定義が無く、読んでいて、理解が進まなかった。
三つめは、論理的に問題が在るといわねばならない。それは、「文化資本」を源泉とした経営が、現代社会の行き詰まりを打開する文化(商品として)を生産するという論理だ。一つ目の問題に、今日の自己破壊的な行き詰まりをもたらしたのは資本主義であることを述べたが、企業とは、この資本主義にとって最も適合的な存在であって、自然ないし社会を再構成するような文化を生産する存在とはなり得ないと、私は考える。
資本の活動とは、歴史的に観ても、資本蓄積の危機を迎えると、これまでの社会的規範を作り直しながら、あたかもそれを正しい人間の生き方、社会の在り方のように偽装し、人間と社会を資本に従わせて、自らの延命を図ってきたからだ。「文化資本の経営」説は、その問題の枠を出ないからだ。
巻頭解説には、この著作は問題提起の段階であり、できるだけ論理的考究は避けるとあるのだから、残念な限りだ。
経営書とするならば
加えて、書評としての裏表紙に寄せる著名な経営者や学者・評論家の「煽り」がすごい。本当にこの本を精読したのかと思わせるような内容であり、「文化資本の経営」を称賛しまくっている。この本の著者は、著名な経営者だが、自分が培ってきた経営を自分なりの表現を用いて整理し、自らの経営論とすることは、良しとしたい。しかし、それを書籍にして、世に発信するのであるならば、私が問題として指摘したようなことは、少なくとも解消して欲しい。よりよい社会の実現を旨とする訳でなく、売らんかな、儲からんかなという出版社のプロデュースは、残念な限りだ。まさに、資本主義なのだ。
ナンシー・フレイザー(米国・政治学者1947年生)は、資本主義について、それを経済システムとしてのみ捉えるのでなく、社会全般の特定の在り方として「制度化された社会秩序」と解することでしか、行き詰る現代社会の問題は克服できないと提起した。(注2)
そのことは、資本主義が、経済システムとして、自らは生み出すことができないものに全面的に依存し、その本質的衝動である無限の資本蓄積を目指していることを示している。それは、「社会的再生産」「環境」「民主主義」「人種差別」であり、これらはいずれも現代において、世界的に深刻な危機をもたらしている。
そう考えてみると、経営者、経営コンサルタント、経営書の出版社も、経済ないし経営の側にいる人びとは、経営の側からのみ経営を考えるのでなく、社会はどう在るべきかの側から、行き詰まりを見せる危機、それを生み出している資本主義社会の問題を捉えて、経営はどう在るべきかを考え、社会に発信していかなければならない。
さいごに
経済および経営の側にいて、それを生業とすることで、信じて疑えない考え方の枠組みがある。これを相対化できるような知性を持たなければ、世界を覆う危機は不可逆的なものとなる。
私は後輩に、「経営の側から、経営をどうするかという観方もあれば、社会はどう在るべきかの観点から経営はどうあるべきかを観る、その双方から観ることが必要だ。」とだけ、コメントをしておいた。
注1『文化資本の経営』福原義春+文化資本研究会 解説・佐宗邦威、NEWSPICKS PUBLISHING、2023年
注2『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』、ナンシー・フレイザー著、江口泰子訳 ちくま新書740、2023年