筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
ひさしぶりに土井たか子氏の経歴を駆け足で見直す。
1968年12月、成田知己で社会党委員長から、兵庫2区(当時)への出馬要請があったのが始まりである。
土井さんは当時、同志社大学、関西学院大学、聖和女子大学で憲法学を講義していた。同志社大学で田畑忍教授(1902~1994)の憲法学講義を聞いて大感激、自分も憲法学をめざした。
毎日放送でレギュラーコメンテーターを週1回務めていた。神戸市の人事委員会委員でもあり、憲法を暮らしに生かす仕事に熱中していた。
はじめは乗り気ではなかったが、恩師の推挙もあり、持ち前の負けん気に火がついて、1969年12月の総選挙に出馬。自民党議員は選挙資金1億円が相場だったが、素寒貧の預金300万円が軍資金であった。あとは、支援者からのカンパ、手弁当でやるしかないという無茶な選挙である。
しかも兵庫2区は激戦区、ツワモノ揃い。社会党が堀昌雄氏と新人土井氏の2人擁立したのだから、前評判は落選確実であった。
わたしは組合執行委員なりたてだったが、謄写版印刷で宣伝ビラを1万枚くらい作った。同じ原稿をガリ版でなんども刻んだ。
最初は、まったく本人と面識のない組合員ばかりだったが、声をかけるとよっしゃという調子で、ビラ配りや、ポスター貼り、カンパにも大いに協力してくれた。土井さんは、演説がうまいとは思わなかったが、気風がいい、雰囲気がある。人物が知られるにつれて手弁当応援団が増えた。
開票は最後の最後まで当選が決まらず、ようやく滑り込み初当選を果たした。次点との票差はわずか1400票ほどであった。
1983年夏、東京駅で21時過ぎ、土井さんにばったり出会った。ちょっと話そうというわけで、赤坂界隈で話し込んだ。おりから、社会党副委員長に就任させようという動きがあった。わたしは反対意見を述べた。いまの社会党は女性をお飾り副委員長にするだけだ。断るべし。いずれ、石橋委員長の次に委員長になってくれと言われる。簡単に腰を上げないほうがよろしいと。
わたしは、社会党がおっさんばかりで人気がない。土井委員長になったら、乾坤一擲の勝負をかける気で、党改革に大ナタを振るってもらいたかった。いささかお役に立てる提案もあるので、あえて袖を引いた。
結局、土井さんは副委員長を引き受けた。いま思うと、他に人がいないし、もったいぶらず、全面的に協力しようという侠気、常識的な慎重論には、なにくそやってやるわという意地であった。
しかし、裏目であった。それから3年後に委員長になったが、すでに党はボロボロ。わたしは地域の議員を注視していたが、土井さんを盛り立てて党勢拡大しようというような玉はほぼいない。土井さんの選挙となれば、われもわれもキジやサル、イヌの役回りとばかりぶら下がってしまう。
アンタらがくっついて歩いたら、候補者の引き立て役にはならない。それより潜って票を集めるべきだ、と露骨に注意しても通じない。そして、これが全党の雰囲気であったといってもまちがいではない。
わたしは党改革に着手してほしいから、様子を聞くと、とにかく、日本全国を365日広告塔して歩いているというわけだ。たまたま1989年参議院議員選挙では、マドンナブームが起こって、土井さんは、「山が動いた」と名文句を語ったが、それから3年後の1991年統一地方選挙では大敗して辞任する。看板だけで党勢拡大できるなら、こんなラクな話はない。
1996年には議長に就任した。わたしは、このとき、土井さんの政治家生活は終わったと理解した。土井さんは、請われれば貧乏くじとわかっていても引いた。だから、その後のことは語りたくない。
土井さんはリベラル、民主主義の旗を押し立てたかった。それを妨害したのは1つには社会党内部である。超素人政治家の土井さんを生かすことができれば、社会党は再生できた。社会党を潰したのは普通の玄人政治家たちである。
いまの若い人たちは社会党なんて知らないだろう。社会党は自分が再生する力を発揮できなかった。その後、いろいろ動きがあるが、いまだ有力な野党が育たない。社会党を研究するのは、日本政治の未来のために有益である。
土井さんは1928年生まれ、2014年9月20日に彼方へ行かれた。