週刊RO通信

政権を託せる構想を競う、とは

NO.1580

 立憲民主党代表選挙(9月7日告示・23日投開票)、自由民主党総裁選挙(9月12日告示・27日投票)の論議が連日続けられている。いずれも長めに選挙日程が設定されたが、ここまで各候補者の発言では、とくに耳目を属する内容はない。わたしは、まだ聞きたいものが聞こえてこない。

 こんかいの代表選・総裁選が注目されるのは、いわゆる自民党議員の裏金問題で、のらりくらり逃げを打っていた岸田氏が、ようやく四面楚歌の事態を認めて総裁選出馬を断念したことから、9人の立候補に至った。

 自民党は党員100万人だから、9人が多すぎるとはいえないが、派閥が機能すればこうはならないから、物理的な派閥の崩壊の効果があった。人材払底感はぬぐえない。予想した以上に、新たな人材が育っていない。かつて人を育てると豪語した派閥でのんきを決め込んでいたのだろう。

 自民党議員であれば、もっか最大の懸念は、来るべき総選挙で自分が生き残られるかどうか。看板がどう変わろうと、わたしは自信をもって選挙に挑戦するという人は多くない。看板と追い風に乗って当選したのだから、次の看板が誰になるか。彼らがいちばん真剣深刻に総裁選を注視している。

 新聞が候補者諸君に与えた課題を社説でみると、「党の再生が問われる」(9/13朝日)、「日本の針路を大局的に論じよ」(同読売)、「裏金から逃げない論議を」(同毎日)である。

 党の再生とはなにか? 裏金つくりを止めますというだけではすまない。しかし、裏金問題の解答すら、現時点ではスカッとしない。業を煮やした毎日は「刷新の具体性が見えない」(9/15)と社説を掲げた。

 わたしは、国会における議論を軽視し、数の力で押し切ってきた体質を改めてもらいたい。すごく単純な表現だが、総裁(首相)をめざす人たちの口から、「強引な政権運営はやらない。他党の意見を拝聴して、最適解を追求する」という発言を聞きたい。

 これは宰相になる人の原則的な態度である。総裁は党内では好き放題の議論を引っ提げるとしても、首相は自民党ではない。日本国の首相である。いままでの首相は、時代が下がるほど日本国の首相であることを忘れていた。たまたまわが国の人々は温厚なのであろうが、それに付け込んで恣意的政権運営をやるようでは党の再生どころの話ではない。

 「日本の針路を大局的に論じよ」については、答案がほとんど書かれていない。これは、過去の自民党の政権運営を総括して、自分の見解をまとめねばならない。大変な作業であるから、大局的に論じるわけだ。それができないのは、前例踏襲でいけばよろしいとルーズに構えているからだ。

 本当に日本を取り巻く安全環境が悪化していると認識するのであれば、政治家としてなにができるか、なにをなすべきか、まっさきに語らねばならない。前例踏襲ならば、事態が改善される可能性はない。軍事力を拡大することが安全を保障しないことくらいは理解できているだろう。

 自民党総裁にどなたが就任されようと勝手だが、わたしにも、日本の首相としてこうあってほしい、という意見を述べる権利はある。そこで一言、ただいまの9人には期待できる人はいない。

 立憲民主党代表選に対する社説は、「政権選択肢示す議論を」(9/8朝日)、「現実的政策を確立できるか」(同読売)、「政権託せる構想を競う時」(同毎日)などである。

 立民は単独過半数を獲得できる見通しがないので、すなわち他党との連携問題が出てくる。ただし、あくまでも主体的に取り組むのは自分の党である。政権を取らない党はネズミを捕らない猫と同じとそしられようとも、他党との連携を無理に推進するなら、立民アイデンティティがお留守になる。

 自民党が果たして民主主義を育てる政党であったか。日本国憲法を変えることに党是をおいているだけでなく、民主主義を育てようしてこなかった。国家主義観が強いからである。これこそが問題の核心である。

 立民は、民主主義=人間の尊厳=基本的人権、主権在民の民主主義政党として、大局から自民党政治と対峙するべきである。人々に、人々の民主主義意識を問う決意で、立民らしさを押し出してもらいたい。