論 考

国立大学授業料値上げ問題

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 2004年に国立大学が独立法人化された。当初から、政府(文部省)の言い分をよく聞くように、財政ひも付き効果を上げようとしているのは丸見えだった。予定通りというべきか、大学はいずれも資金繰りに躍起になっている。

 財政の心配がないからといってあぐらをかかれてはいかんが、大学執行部がおカネの始末に右往左往するようでは学問の府といえない。いまや、その傾向が著しい。

 つねづね指摘されていたのは、例によって人件費を絞り上げる。多数の教員を3~5年の任期付き採用にする結果、研究力低下が各方面で指摘されている。日本の新規論文の著しい低下は、その典型である。

 それでも資金繰りに余裕がでるわけがないから、ついに消費者! たる学生の授業料を引き上げようという算段である。大学を遊園地にしている学生がいるかもしれないが、おおかたの学生は卒業めざして必死である。おカネに余裕のある学生が多くないのは常識だ。

 ちょっと余計なことだが、大学を遊園地にして余裕綽々やっているような学生は、むしろ見どころありというべきかもしれない。それで堂々と卒業するなら見上げたものだ。

 わたしの某先輩は、勤め人をこなしつつ某有名私学の通信制に入学し、7年かけて卒業した。なかなか居心地がよろしいのか卒業するためにではなく、在学するために入学したようなものだ。ついにこれ以上は学生たることを認めずというリミットが来て、ようやく卒業した。それなりに懐事情が許すという結構なケースであり、わたしは卒論をお手伝いする名誉をいただいた。

 先輩の学業が期待したほど向上しなかったのは遺憾だが、まあまあ、多忙なお勤めの傍ら学ぼうとしたのは大いに上等であるし、なによりも、これこそが学問の本来の値打ちである。

 そもそも、世間では大学卒業即戦力論が幅を利かせている。会社にすれば好都合である。しかし、果たして大学は産業人見習いを育成するのが目的だろうか。否、それは絶対に心得違いである。

 歴史をたどれば、はるか古代ギリシャにおいて、「学問は、医者・牧師・法律家・商人をつくることにあらず」という考えが柱であった。人間には無限の可能性が隠れている。それをいかに発見・発掘して育て上げるか。これが、人間の生来の自由である。

 だからブチャー(1850~1910)は、名著『ギリシャ精神の様相』のクライマックスに、「思惟を抑圧せよ、されば人は自由そのものを抑圧するであろう」と喝破した。

 なにものかが、狭い了見で自分の都合のよいように人を育てるならば、その目的には好都合かもしれないが、その人が本来もっていた個性が芽吹かないままに人生を送る。これが一般的だとすれば、その社会は活力を失うのが当たり前だ。だから、誰でも独裁者を排斥するのである。

 敗戦までの日本は、国家主義によって、個人主義はことごとく潰した。わたしが社会人に仲間入りしたのは、すでに戦後20年であるが、少なからぬ人が戦前の皇民教育のトラウマにとらわれていた。――と思っていたが、どうやら、いまだにその傾向が執拗に残っているようだ。

 間口を広げすぎたので戻す。大学は部門的諸学校の単なる集合ではない。過度の専門化は科学の死滅である。すべての学生は、知識の諸原理を授けられるべきである。

 つい最近、原爆を開発製造したオッペンハイマーの映画が話題を呼んだ。彼はすごい知識人である。しかし、原爆が大量殺戮することの致命的な意味に気づいたのは原爆が爆発した後である。もし、彼が、破壊や殺戮の技術はわざわざ頭を使って開発することではないと知っていたらどうだったろうか。

 知識はおカネになるから価値があるのではない。誰かが独占してしまうものではなく、どんどん共有されて社会に貢献するから価値がある。

 おカネ万能社会の教育のなんたるつまらないことか。大学教育は、まさに社会が受益者たることを期待されている。そのために、第一に、人の中に隠れている個性を引き出し育てる、もっとも卓抜した機関であるべきだ。

 授業料問題の解答はそこから引き出せるはずである。