NO.1578
絶対的な意味で、現在にまさる過去はないはずである。しかし、現在を考える時、はるか昔からまったく進歩していないように感じる。たとえば、科学技術は原子爆弾を生み出したが、破壊力を増しただけで、平和共存からはますます遠ざかり、世界破滅を杞憂だと笑い飛ばせない。
ローマ帝政初期の詩人・ホラティウス(前65~前8)の詩の一節である。
――祖父母に劣れる父母 さらに劣れるわれらを生めり われら遠からずより劣悪なる子孫をもうけん――
苦く、黒い笑いを生む自虐的表現で、いろいろの思いが交錯する。これをもとに少し考えてみたい。
人間は社会的動物である。社会抜きには生きられない。さらに、組織的動物であって、組織抜きには生きられない。ところで本来、社会・組織が人間より先行していたのではない。人間が、2人から始めてやがて巨大な社会・組織を形成した。時間的に考えれば、個人が集まって社会・組織を作った。
ところが、最初の人々を除くと、後から来た人々は、すでに存在する社会・組織に仲間入りさせてもらうように思う。もちろん、そうであっても、個人が集まって社会・組織をつくっているという原則は不変であるが。
後から社会・組織に仲間入りするには、さまざまな通過儀礼がある。たとえば、入社式の1人になるためには、試験の難関を突破せねばならない。入社試験を受けるためには、しかるべき学歴(力)が不可欠である。いまや幼稚園から大学までいろいろな試験に合格しなければならない。
幼稚園からさんざん試験に苦労してきたから、とてもじゃないが、自分が社会・組織をつくっている不可欠の分子だということに考えが及びにくい。幸いにも試験に合格して仲間入りさせてもらったのだから、弾き出されたりせず、四海波静かに、社会人・組織人としての生活を送りたい。これ、無意識であってもかなり支配的な意識なのであろう。
さて、人間は環境・状況の生き物でもある。古代ギリシャのヘラクレイトス(前6~5世紀)は、万物は流転すると説いた。世界は無常、万物はとどまることがない。と理解すれば、人間は環境・状況にたいして休むことなく必要な均衡を維持しなければならない存在である。
人間行動Bは主体Pと状況Sの関数である。PがSにいかに働きかけるか問われる。それが社会・組織における人間の宿命であろう。
バス(状況)に乗り遅れるなという。バスを走らせるのは人である。状況に働きかけるのは人であって、自分もその1人なのである。ところが、おおかたは乗客気分であって、自分が状況に働きかけるのだとは思わない。
社会・組織には先例がある。ある状況において創造された方法は、その時間から遠ざかるほど無常の状況との間にギャップを発生する。にもかかわらず、人はこの事実を見失いやすい。目先の状況において、習慣的に思索し行動するばかりである。これは、優れた祖父母の後塵を拝することである。
はたまた、仕事をするうえで、マニュアルは至極便利である。1980年代に、いずれの企業においてもさまざまなマニュアルが整備され始めた。新米ほどマニュアルはありがたい。マニュアル全盛となった。
しかし、ここに落とし穴がある。マニュアルがいかなる環境・状況においてつくられたのか。作成者は十分に理解しているとしても、与えられたマニュアルで行動する多数の人は、マニュアルが作成された環境・状況に思いをはせることはない。マニュアル原理主義である。
当時、マニュアルに使われるな。自分がマニュアルをつくれといった。これは正鵠を射たメッセージであるが、ひたすら目先のジョブをこなすだけ。自分のマニュアルをつくろうとはしない。かくして、マニュアル人間が大増産されてしまう。
ほとんどの組織が前例踏襲を大義名分として運営されている。おかげで目立ったトラブルはきわめて少ない。しかし、習慣を繰り返すだけであれば社会・組織は活力を失う一方である。人々はまじめに! 社会・組織をスポイルし続けているわけだ。とどのつまりは、「われら遠からず より劣悪な子孫をもうけん」の理屈が成り立つというわけである。