NO.1577
アメリカは大統領選挙、日本は自由民主党・立憲民主党の総裁・代表選挙である。いずれも次の政治のトップを決める選挙である。しかし、アメリカの派手な選挙戦に比較すると、日本の場合はめだたない・におわない。
それは当然である。アメリカは民主主義のリーダーとして、ハリスとトランプのいずれが適格か。トランプが専制的リーダーシップを臆面もなく押し出す。選挙結果を認めず、暴動を教唆するごとき発言を繰り返し、とりわけ司法を支配する行動・意欲を露骨に示しており、民主主義を信奉する人々にとっては許容できない候補者である。
トランプを支持する人々を非民主主義者だと断定はできない。おそらくおおかたは民主主義を当然の政治制度だと理解し、自分自身を民主主義者だと規定しているにちがいない。このように考えると、アメリカ大統領選挙の激烈さが非常に奇妙に見えてくる。
トランプ支持者は、政治が一部のエリート・特権階級のためにおこなわれていると憤慨する。だから、トランプがホラを吹き、嘘を語っても、目的がエリート・特権階級打破に向けられているから気にしない。自分が敵視している連中を叩くためだから嘘も方便という程度の問題意識しかない。
ここが、わたしには腑に落ちない。なぜなら、民主主義思想は、個人の尊厳を出発点として、お互いが話し合いをする仕組みである。どつきあって、力のあるものが正しいのではない。言葉の交換によって、お互いが疑問を解消し、納得ずくの結論に至ろうとするものである。
言葉が正確でないとか、ホラや嘘であれば、問題の解決に至らない。ますますお互いの関係は迷路にはまってしまう。だから、自分の思うところをいかに正確に表現するか。これが民主主義の不可欠な条件である。ホラや嘘は排除されるのが当然であり、そんな発信者は民主主義と相容れない。
にもかかわらずトランプ支持者は、彼のホラや嘘をこそ崇め奉る。ここには、あきらかに民主主義の危機が存在する。つまり、トランプ支持者は自分たちと意見が異なる人々と話し合いで合意に至るように努力しようというのではない。自分たちの意見が勝てばよいという考え方である。
異なる意見を収斂して、話し合いで合意させようというのが民主主義である。しかし、話し合いを拒絶するならば民主主義は成り立たない。もちろん、民主主義には多数決という方法がある。51対49でも、多数決は多数決であって、尊重されなければならないが、話し合いが煮詰められず、ただ数の多数を決するのは力の決着であり、意識の断絶は解消できない。
日本に民主主義を植え付けてくれたのはアメリカである。国際政治面においては、看過できない多くの問題を抱えつつも、それでもアメリカは、日本から見れば民主主義の先達として光り輝く存在である。これがもし、さらなる民主主義の崩壊へ突っ込むならば、国際政治におけるアメリカのリーダーシップは地に堕ちる。それに追従してうろうろしている日本政治を語る言葉が見つからないくらいだ。
ところで日本においては、トランプはいないが、自民党が全体としてトランプ的専制を突き進んできた。派手なトランプ的人物は登場しないにしても、数の力によって国会審議を空洞化した。政治的緊張感の欠落した政治が繰り返されている。
政治とカネといえば大層な話だが、中身は、まことに下賤なつまみ食い、役得の乱用でしかない。政治資金のすべてが公表されるのが当たり前だ。その程度のことに対して、政治改革なんて言葉が掲げられるのは恥ずかしい。
連日の新聞報道も同じ話の繰り返し。月4900円の新聞代がもったいないと思うことが多くなった。ようやく登場し始めた自民党総裁選候補者は、百花争鳴、群雄割拠—-とんでもない、玉抜き玉石混交、大道バナナのたたき売り、在庫一掃、よくいえばどんぐりコロコロの手合いである。
日本政治は、アメリカ的派手さはないが、その分、政治危機は真綿で首を絞めるがごとく日々に浸透して止まる気配がない。民主主義79年の民主主義の未熟は、なにがおかしいのか! わからないような民主主義を形成しているとしか表現の方法がない。