筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
自民党総裁選挙は9月12日告示、同27日投開票の日程が決められた。
わたしは、党員約100万人以外の人間であって、総裁選挙に投票する権利はない。しかし、ただいまの総裁選向け新聞論調をみると、政治とカネが最大の問題として扱われているみたいで、それでは納得できない。
裏金つくり問題の本質は、自民党議員らが本気で政治をやるよりも、政治を生業として政治家たることを謳歌しているのが許せないという庶民感覚にある。つまり、本気で政治をやるとはどういうことなのか。それが第一に問われている。
1950年代後半、実力者河野一郎(1898~1965)は、ラジオのインタビューで、「選挙で自民党が最大多数を握っているのだから、自由に政治をやらせてもらいたい」と語った。まるで選挙の意味がわかっていない。これでは、議会が機能するわけがない。
この発想は、民主主義の理解がまことに浅薄なレベルにあることを示す。つまり、最後は多数決なんだから、すったもんだしても結末は同じだとうそぶいているのと等しい。
いかに自民党が最大会派であろうとも、問答無用で最大会派の政策が認められるわけではない。議員はたしかに各党派に属するが、1つひとつの政策課題は、各議員が自分に投票してくれた有権者をおもんばかって、議員個人として最大限の思索活動の結果として議論に参加し、議論が煮詰まった暁には議決の任に当たるのである。
いかに自民党が党内論議を厳密に展開したからといって、それがすべてに優先するわけがない。少数党から提起された見解であっても、有意義なものを見逃さぬようにし、異なる意見を収斂させ、めざす目的に向かって、もっとも有意なものを作り上げる。そのために議会の論議が存在する。
河野は、民主主義的議論の本義がわかっていない戦前派議員と等しい。問題は、それから70年過ぎたのに、いまもおおかたの自民党議員が河野並みである。
自民党が選んだ首相であろうとも、その首相が、国会でろくな答弁をしない会議に参加していてばかばかしいとは思わないのか。それでよろしいのであれば、頭数だけの議員はいらない。まさに、河野が主張したごとく、選挙結果が出てすべてオーライなのであれば、野党のみならず、与党議員も必要ない。
では、だれが政治をおこなうのか。官僚である。官僚がすべてを牛耳る。いわく、官僚政治である。敗戦までの議会政治は、まさに、官僚政治であり、いわば議員は名誉職に過ぎない。かかる堕落した精神状態において、国家なるものが道を誤らずに前進するわけがない。その結末は、内外に大惨禍をもたらして、日本が連合国に無条件降参する羽目になった。忘れたのか!
いまの日本政治が、なにゆえ中身のないぐうたら政治に堕しているのか。
敗戦後、民主主義になって、政治家もゼロから出直した。日本国憲法制定に際し、尾崎行雄(1858~1954)は、「このように立派な憲法は、内閣が雛壇にぞろりと並んでいるような(形式的な)ことでは実現できない」とぶった。
まさに、議会はだれもが必死で知恵を出し、他者の見解を聞いて、さらに思考を深めるという、民主主義の原則的実践に挑まねばならない。そんな議員がいるのか。ちゃらちゃらふわふわ、形式的に、議会論議に参加しているだけではないのか。
政府の借金は泥沼状態だ。社会福祉体制をどうして維持するのか。この2つだけ考えても、いまの政治家諸君のおつむがパンクして対応できないのではないか。だから、本気でこんな問題に取り組もうとする議員はいない。
たびたび指摘しているが、自衛隊で国民と国を守られるわけがない。そこへあたかも湯水のごとくに予算をつぎ込む。そんなもので、国民が守られると信じているのか。
8月21日の社説は、「自民党総裁選 生まれ変わる契機にできるか」(読売)、「自民党の総裁選 『政治とカネ』忘れたのか」(毎日)と掲げるが、新聞自身がこんな程度で日本政治がよくなると考えているのであればお話にならない。
