筆者 酒井誠(さかい・まこと)
(1)
今年は、日清戦争(中国では甲午戦争と呼ぶ)開戦から130周年にあたる。この戦争に勝利した日本は、台湾及び澎湖諸島の領有権を手に入れ、以後その植民地支配は日本の敗戦まで続くことになった。私の父酒井定吉は、この日清戦争が始まる前年、1893(明治26)年に静岡市で生まれた。
明治維新で没落した静岡の下級武士を先祖とする手工業者の家に生まれた父は、寺侍であった祖父の儒教的な教育を受け、高等小学を終えると茶問屋の丁稚小僧に出された。だが、本人の言葉によると、「半封建的な主従関係のもとに不正不義を常道とする資本主義(的商業)道徳を強制され、虚偽と搾取に反抗的となった」と云う。やがて徴兵検査の不合格を機に、労働者生活に入り九州各地の炭鉱夫や大阪の紡績工場機械工などを転々とし、24歳の時に国鉄職員に採用されるが、この頃は勃興しはじめた労働運動の黎明期であった。
世界では前年の1917年にロシア革命が成功し、社会主義が現実の実体として歴史の舞台にはじめて登場した。日本ではその翌年に米騒動が起こり、大逆事件によって「冬の時代」にあった社会主義者の運動が再び勢いを取り戻していった。父は結成直後の「大日本機関車乗務員会」に参加し、時代の新たな息吹を浴びて、職場の同僚と労働運動の研究会を組織したことが当局から警戒されて、国鉄を馘首される。
この前年には、朝鮮で日本からの独立を宣言する「三・一運動」が、また中国では日本の対華二十一カ条要求に抵抗する「五四運動」が起きている。日本の帝国主義的野望と支配に対する中国、朝鮮両国民衆の愛国的な抵抗運動に直面した日本の支配層は、その底流に流れる民族的覚醒の急速な高まりに目をふさぎ、軍事力を背景とした脅迫的な威圧と暴力的弾圧で応えた。
その後、父は名古屋鉄道に就職し、労働組合を結成して支部長になるが、国鉄を馘首された経歴を隠していたことが会社側に知られて首を切られ、それに抵抗した組合も切り崩しに遭い潰滅する。この頃、後にプロレタリア作家となる葉山嘉樹ら左翼労働運動を志向する同志を糾合してLP会(別称=レッド・プロレタリア会)を組織し、プロフィンテルン規約の研究などをおこなったことが当局に察知されて一斉に検挙され、父は禁錮8カ月の刑を受けて初入獄の洗礼を受けている。その1か月前には、結党後1年を経た非合法の日本共産党の幹部多数が一斉に検挙された。第一次共産党事件である。その2か月ほど後の9月1日には関東大震災が首都を襲い、川合義虎ら労働運動活動家やアナーキストの大杉栄らが官憲の手によって虐殺されたほか、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」との流言飛語が飛ぶどさくさの中で、多数の朝鮮人と中国人に対する虐殺事件が起きた。今から100年前のことである。
こうした体験を経て、父は共産主義思想に近づき、地下の共産党の派遣で革命ロシアへ密航し、コミンテルン指導下のクートヴェ(東方勤労者共産大学)で本格的に共産主義思想を学んだ。そして、その滞在中に資格審査を受けて日本共産党員となり、1928(昭和3)に起きた「3・15事件」で組織が大打撃を受けた日本共産党の再建を任務として、その年4月に帰国したが、わずか1年の地下活動の後に翌年の「4・16事件」で検挙投獄され、以後日本の敗戦によって政治犯が釈放されるまで、15年間を獄窓に送った。父は翌年に母と初めて結婚した。私が生まれたのは次の年、父は54歳になっていた。
(2)
私は父の歩んだ道を辿って、表題の小伝『酒井定吉とその時代』を、父の死後50年目にあたる今年1月に出版した。ここに至るには、中国の文化大革命を契機とした長年の父子間の確執があるのだが、そのいきさつについては、戦後の父の足跡とともに拙著に詳しく書いたので、ここでは触れない。
執筆するなかで、戦前の歴史を改めて振り返ってみて、幾つかのことが強く私の心に残った。
戦前における父の足跡は、日本資本主義が帝国主義段階へ入り、天皇制政府が明治の自由民権運動や大正デモクラシーを圧殺しながら、軍部の擡頭とファッショ化が進行し、中国国民革命への干渉、満州事変から盧溝橋事件を経て日中戦争に至る中国への全面侵略へ至る過程と、歩調をひとつにしていたといえる。それは、大正から昭和のはじめまで日本社会に残っていたリベラルで理性的な言論活動や社会運動が、満州事変を境にして次第に生存空間を奪われて終には非合法化されていき、また、天皇制廃止を掲げ帝国主義戦争に反対する日本共産党員への弾圧が、特高警察の手で小林多喜二が虐殺されたように、際限なくエスカレートしていく過程でもあった。
満州事変の前年の1930年に、27歳の石堂清倫青年は故郷の北陸の一地方都市で次のような光景を目にした。或る日、町の公会堂の前を通りかかると、そこでは軍部主催の「時局講演会」が行われており、制服を着た講師の少佐は満員の聴衆を前にして、曰く、日本の農村はいま非常に窮乏している。日本は土地が狭くて人口が過剰であるから土地所有制度の根本的改革はできない。そこで国内から海外へ目を転じなくてはならない。満州・蒙古の沃野を見よ、生きるか死ぬかというときには背に腹は代えられぬから、あの満蒙の沃野を頂戴しようではないか、と。
実に驚くべきではないか。こうした恥知らずの、剥き出しの「強盗の論理」をもって、当時の軍部は白昼堂々と、民衆の最も賤しい欲情をあおり立て、中国侵略へと動員していったのである。軍自身の統計によると、1930年暮れからはじまった「国民的」運動の一部分として行われた各地における講演会は1886か所、聴衆165万人に達した。だが、こうした記事を新聞がひとつも報道しなかったのは何故だったのか。
1937(昭和12)年の盧溝橋事件を突破口にして中国全土への侵略を開始した日本は以後、出口の見えない真っ暗なトンネルに入っていくのだが、その前年に軍の一部将校らによる、帝都を震撼させた「2・26事件」が起きている。
当時、第一高等学校の学生だった評論家の加藤周一は、ある日、「社会法制」という矢内原忠雄教授の講義を聞いた。その頃の内閣は軍部大臣を現役の大臣とする制度であったが、これを利用して陸軍大臣を出さないことによって、内閣の機能を麻痺させることができた。これについて、ある学生が「しかし議会が妥協せず、陸軍も内閣がつくれないわけだから、議会が頑張っていつまでも内閣を成立させないまま対抗することはできないのでしょうか」と、矢内原教授に質問した。すると教授は「そうすれば、君、陸軍は機関銃を構えて議会をとりまくでしょうね」と答え、「教場は一瞬水を打ったようになった。私たちは、軍部独裁への道が、荒涼とした未来へ向かって、まっすぐに一本通っているのを見た」と、加藤は自著に書いている。
これ以後、名だたる大新聞各紙には「暴支膺懲」なる黒白を転倒した見出しをつけて軍部の提灯を持った論調が目立つようになり、日本の侵略を正当化する「強盗の論理」による世論づくりが堂々と行われ、ついには大本営発表を丸呑みした記事で紙面が埋め尽くされていった。
1928(昭和3)年に、普通選挙法と抱き合わせで施行された治安維持法は、共産主義者の弾圧を当初は主な目的としたが、やがて満州事変を経て中国大陸での戦火を拡げていくと、それまでは合法的存在であった労農派、社会民主主義者、自由主義的な知識人、宗教者までが弾圧対象とされたのであった。
(3)
わたしが改めて認識したもう一つのことは、明治維新後の日本が急速に近代化し、帝国主義国家の一員にのし上がって、最後は自滅に至る全過程を、対中国問題が貫いていた、ということである。日米開戦の原因もまた中国の市場と資源を巡る両国の対立が妥協の限界を超えたことと切り離せない。
これは戦前だけのことではない。対中国問題は今日の日本の経済にとっても安全保障にとっても最重要課題であると言って過言ではない。もちろん現在の中国が戦前の中国ではない。今年で建国75周年を迎える中国は、国民総生産は米国に次ぐ世界第2位の“超”大国に発展し、国際社会で重要な地位を占める存在であることは言をまたない。
戦前、中国侵略支配を企んだ日本軍国主義者の最大の失敗は、亡国の危機を前にした全中国民衆が覚醒し、中国共産党とその軍隊の指導のもとに、団結力を強め強靱な抵抗を組織したことがまったく理解できず、その底力を侮りきっていたことであろう。
中国は、辛亥革命によって自らの封建制度を打ち倒し、強大な軍事力で襲いかかった日本帝国主義を広大な国土に縛りつけて遂にこれに勝利し、米帝国主義の後押しされた国民党反動政権を国内革命戦争で覆し新中国を打ち立てた。
幾度もの激烈な闘争と革命によって歴史を創造してきた中国民衆のエネルギーは、私たちが想像する以上の深さと強さを秘めているように思える。そこには日本社会と中国社会の大きな違いがある。これは私たちが中国を見るときに見落としてはならない視点ではないだろうか。
私は魯迅にまつわる二つのことを思い浮かべる。
一つは“三義”と名付けられた鳩の話である。満州事変の翌年初頭、日中両軍が衝突した上海事変が起きた。事変の最中、大阪毎日新聞学芸部に在籍していた西村真琴(俳優の西村晃は息子)と、中国の文豪魯迅との間に、一羽のハトを介した友情が生まれた。
西村が大毎児童使節団長として中国各地を慰問歴訪した1932年2月、上海市の三義里街で、戦火の中に傷ついて飛べなくなったハトを瓦礫の上に見つけ、「三義」と名づけて日本に連れ帰った。二世が生まれたら、日中友好のあかしとして上海に送るつもりだったのだが、残念なことにイタチに襲われて死んでしまった。西村は「三義塚」と刻んだ碑を建て、その思いを手紙にしたため、「西東国こそ異(たが)へ小鳩等は親善あへり一つ巣箱に」の歌と、三義の絵を添え、魯迅に送った。
これに応えて、魯迅は西村に一首の漢詩「三義塔に題す」を贈った。その結びには「度盡劫波兄弟在 相逢一笑泯恩讐」とあった。「荒波を渡り尽くせば兄弟がいる。会って笑えば、恩讐は消える」という意味である。その当時、身辺に危険が迫っていた魯迅は、上海内山書店主の内山完造(日中友好協会初代理事長)に「大阪の友にもおくるべきものを送った」と語っている。(二〇〇二年、豊中市日中友好協会が中心となり、豊中市立中央公民館の敷地に石碑「三義塚」が設置された。)
もう一つは、この一年後に築地小劇場で執りおこなわれた小林多喜二の労農葬に魯迅が寄せた言葉である。
「日本と中国との大衆はもとより兄弟である。資産階級は、大衆をだまして、その血で界をえがいた。また、えがきつつある。
しかし無産者階級とその先駆者達は血でそれを洗っている。
同志小林の死は、その実証の一つだ。
我々は知っている。我々は忘れない。
我々は堅く同志小林の血路に沿って前進し、握手するのだ」
「日本和中國地民眾從來是兄弟。資產階級欺騙民眾,用他們的血來劃開一條界線,並且仍然在劃著。
然而無產階級及其先驅者們,卻正用血來沖刷著這界線。
小林同志之死,便是其實證之一。
我們知道,我們不會忘卻。
我們將堅定地沿著小林同志的血路攜手前進」。
魯迅が西村と多喜二に贈った言葉はともに、両国が置かれた目の前の事態を超えて、日本の民衆と連帯する深い希望と友情を込めたメッセージであった。それから90年余を経た今日、日中関係が複雑さを増しているなかにあって、魯迅の言葉に含まれた精神と思想は、その輝きをいっそう増しており、わたしたちに大きな示唆を与えているのではなかろうか。(了)
