NO.1575
巷では『なぜ、働いていると本がよめなくなるのか』という本が売れているらしい。わたしは少し興味が沸いた。もちろん、読む気はない。なぜ、こんなタイトルに惹かれるのかという興味である。
60年前、働く人々が集まって読書サークルが流行していた。たいがいの職域で活動していた。わたしが属していたのは十数人ほど。たとえば、大江健三郎、遠藤周作、武田泰淳などの作品を読んで感想を話し合う。
読むだけでなく、年に一度はお互いの創作をガリ版印刷で文集にした。手作り文集作品もまた、相互に感想を話し合ってひと騒動。やっつけられて、よし、来年こそ拍手される作物を書いてやろうと一念発起する。
当時の職場環境は昨今よりも相当よろしくない。とくに機械工場の仲間が多かった。低賃金、残業、長時間労働の三拍子だ。残業が多いから本が読めないなどと愚痴らない。「この本を読もう」と主導権を握りたい。
とくに中学卒業で就職した仲間は向学心や読書熱が高かった。敗戦後20年、家庭の事情で進学を断念して夜学に通う機会がある大企業をめざした。油まみれの作業服に文庫本をしのばせている人は少なくなかった。
昔気質の親族に、「本などにのぼせ上がる奴」と嫌味を言われる状態から、働くようになって好きな本が読める。彼らは、「働いているから好きな本が読める」ということが当たり前であった。
だから、仕事が忙しくても読みたい本を読む。いや、いろいろなさねばならぬことがあって、しかも読みたい本を読むのだから、忙しい。日々が充実しているから、活気がある。昨今の職場の雰囲気とはおおいに違う。
働いていない人は、果たして読書家なんだろうか。世間は超高齢社会であって、働いていない人はわんさかおられる。仕事から解放されて、しかも時間は潤沢にある。出版業界大繁盛となりそうなものだが、その逆だ。
本が読みたい人は読む。読みたくない人は読まない。これだけのこと。
本が読みたいけれども、思うように読めない人は、「なぜ、働いていると本が読めなくなるのか」について他人に教えてもらおうとはしない。本が読みたくない人は、のっけからこんな本のタイトルに惹きつけられない。
本を読みたい人も読みたくない人も読まないはずの本がなぜ売れるのか? これがわたしの抱いた興味であり、疑問なんである。
自分のことは自分がいちばんよく知っている。自分が、本が読めない理由を他人に教えてもらおうという探求心(?)の出どころはどこなのだろうか。
いまや幼稚園から受験を潜り抜けての高学歴社会、ものごとはなんでも、自分が知らない真実を誰かが知っている。つまり正解があって、それを知ることこそが生きる術だと無意識にうちに刷り込まれているのではないか。
自分自身で考える。仕事が自分の読書熱を阻害しているとすれば、仕事が不向きで嫌である。いつも気ふさぎで読書どころではない。一方、非常に仕事大好きで、他の活動に思いが一切及ばないとする。いずれにしても、他者の介入を求めずとも、自分が本を読まない理由は明確である。
読書熱を阻害する仕事であれば、読書だけに限らず、なにごとにも気分が乗らない原因になっているにちがいない。後者は、仕事が面白く、学ぶことがたくさんあり、必然的に読書熱をさらに燃え立たせるはずである。
ゴキブリを3年観察すれば本が書けるとどこかで聞いたような気がする。実際、仕事が面白ければ向学心に拍車をかける。仕事から発見したことを本に書いてやろうと思い立っても不思議ではない。手前みそだが、わたしは組合役員在任中に4冊本を書いた。
忙しくて読みたい本を読めないという意識状態はよろしくない。そもそも、働くのはなんのためか? 自分が好きなことをするためである。働いているのに好きなことができないのは単に読書できないだけではなく、自分の生き方として大きな蹉跌である。どんどん元気を失ってしまう。
人生に答案用紙上の正解はない。そんなことはわかっているはずだ。しかし、日々の暮らしを繰り返すうちに、身辺に固まってきた常識(?)みたいなものが、自分自身を見えなくしているのではなかろうか。「わたしはなにがしたいのか!」、本が読めないと愚痴る前に考えてみる手もある。
