NO.1574
あの戦争体験を後世に伝えようという、いろんな取り組みがある。わたしは、とくに全国紙の紙面に掲載される読者の体験記や、聞き伝えの文章には必ず目を通している。おおかたは戦争被害者としての体験記である。
しかしあの戦争は、いうならばいまのロシアと同じで、日本国が先に手を出したのであり、なおかつ加害者である。必然的に国民は加害国の一員である。一部の職業軍人だけで戦争したのでもない。武器を取って直接戦闘に加わらず銃後にあったとしても、いろいろな形で戦争に参加した。
もちろん、自分は初めから戦争なんか嫌だった。無理やり引っ張り出されて武器を取ったのだとか、声を上げられなかったが一貫して戦争反対だったなど、いろんな立場があるから、十把一絡げにするべきはでないが、国と国民の関係を切り離しては考えられない。
郭沫若(1892~1978)が、日本人へ「敗戦は歓喜すべきだと思う。敗北を喫したのは、みなさんを搾取・圧迫・吸血した階級であり、ファシスト的軍国主義者と手先である。」とメッセージをくれた。彼は九大医学部卒、蒋介石の北伐で日本へ亡命、日中戦争開始で帰国、抗日救国の活動に挺身した。新中国建設後は中国科学院長など政府要職を歴任した。
いわゆる無辜の民論である。日本国民に対する寛大な言葉ではあるが、その通りだと納得しておしまいでは具合がわるい。日本人には国民としての矜持があるはずだから、いったいなにが問題であったのか。焼夷弾攻撃で逃げ惑う事態になった原因・理由を押さえなければ、いかに言葉を尽くして戦争の被害者体験を語ったとしても、後世へのバトンタッチにはならない。
日本は敗戦後、民主主義の国として再出発した。民主主義を求めて戦争したのではなく、他国の人々の人権を侵害した戦争を15年間も続けた。1931年満州事変を皮切りに、1937年日中戦争へ。そして南方進出と1941年12月8日、パールハーバー奇襲攻撃で太平洋戦争に突入し、1945年9月2日、東京湾上のミズーリ号艦上において、無条件降伏の署名(重光葵外相)をして終わった。
民主主義を求めたのではなかったが、降伏勧告のポツダム宣言に基づいて民主主義になった。敗戦までの圧政を考えれば、まさに敗戦は歓喜すべき終戦であった。しかし奇妙にも、敗戦を知った国民の多数は茫然自失状態であり、人知れず歓喜の涙を流した人はきわめて少なかった。
戦果抜群で意気上がっていたのではない。逆である。戦争は負けるなどと口走ろうものならぶん殴られて危ないから沈黙しているだけで、勝てると信じていた人はおそらくほとんどいなかっただろう。しかも、飲まず食わずうごめいているみたいだったのだから、歓喜の声が上がらなかったのは、非常に不思議である。
我に返った後は、とにかく生きるために食べる算段をしなければならない。当時の写真から人々の表情を見ると、やせこけてはいるものの活気がみなぎっている(感じである)。「あの戦争はなんだったのか?」という問いかけは主流にならなかった。終わったものは仕方がないという気持ちだろうか。しかし、命がけであったにしては不思議である。
1941年に国から『臣民の道』と『戦陣訓』なる文書が出された。前者は、「皇国臣民(国民ではない)は、国体(天皇)に徹することが第一の要件である。私生活の間にも天皇に帰一し、国家に奉仕するのを忘れてはならぬ」。後者は、「命令一下、欣然として死地に投ぜよ」という。いずれも、要するに、個人の尊厳を押し殺して、天皇のために喜んで死ねというのが肝である。
こういうのは思い出すのも嫌だからさっさと忘れてしまったのか。あるいは過ぎてしまえば、それなりに懐かしいのか。個人の尊厳など存在しない臣民という地位が心地よかったのか。
戦争体験世代の人々が、あの戦争の総括をおこなわず、その後の世代も手つかずのままである。しかし、戦争は大きな事件ではあるが一つの現象である。現象を生み出した原因・理由を放置したのでは、戦争の悲惨をいくら語っても説得力がなかろう。戦後の歴史だけでは不足だ。せめて15年戦争の流れをだれもが勉強するべきである。いまは、それがきわめて大切である。