週刊RO通信

文明と野蛮

NO.1573

 イスラエル首相ネタニヤフが、7月24日米国上下院合同の議場で演説した。バイデン・トランプ両氏に支援に対する謝意を示し、アメリカの迅速なイスラエル支援がガザ地区での戦闘終結を劇的に早めると語った。今回、ハマスをせん滅するという過激な表現はしなかった。

 わたしは、ネタニヤフが、イスラエルとパレスチナ関係を「文明と野蛮」の衝突と表現したのが引っ掛かった。すでにガザでは39,145人が死亡、病院や国連の施設に対する攻撃も激しく、国連職員100数十人も亡くなったという。ネタニヤフとしては、イスラエルが文明でハマス(パレスチナ)が野蛮だとレッテルを貼るのだが、果たしてそのような表現が妥当だろうか。

 野蛮は、文化が開けていないことであり、その人々や国・社会を、さらにその風習を示している。無教養で粗暴である。乱暴で人道に反することだ。

 文明は、文教が進んで人知が明らかである。都市化=civilizationであり、人間尊重・機会均等の原則が浸透している。技術的・物質的な発展も意味する。なるほど素晴らしいことだらけである。

 ハマスをテロリズムと口を極めて罵倒するかわりに、イスラエルとパレスチナを対比し、ハマスというテロ集団を含むパレスチナを野蛮だと、いささか上品にこき下ろしている。表現は変わってもハマスがテロ集団だから、すべて相手がわるいとする本音は変わらない。

 野蛮によって脅威にさらされる文明側としては、戦わざるを得ない。せん滅とはいわないが、野蛮が文明によって平定されるのは当然だというわけだ。

 身内同然の米国議会だから、なにをしゃべっても拍手で迎えられる。しかし、イスラエルとパレスチナの葛藤・衝突の歴史を見ると、イスラエルが文明の立場をほしいままにすることは僭越なだけではなく、事実関係を逆転させている。質の悪いデマゴーグである。

 イスラエル建国以来の80年近く、イスラエルは一貫してパレスチナを圧迫・弾圧し、パレスチナの自立を妨害してきたし、力にものをいわせた植民活動は、傍若無人の乱暴である。無差別の暴力行為をおこなうのが果たして文明の名に値するかどうか。むしろ野蛮というほうが適切である。

 自分の野蛮を棚に上げて、相手を一方的に野蛮呼ばわりするのは、精神的には下衆の野蛮である。そのような演説にスタンディング・オベーションで応ずる米国議会は、いったいなにを考えているのであろうか。

 大航海時代が開始したのは、世界の文明を前へ進める画期であった。しかし、たとえばラス・カサス(1474~1566)が『インディアスの破壊についての簡潔な報告書』(1542)で、スペインの新大陸征服によるインディオの奴隷化と虐待に反対して暴いたように、西欧諸国による新大陸征服の野望と資源・富を本国に還流させた破廉恥極まる儲け主義を、単純に文明が野蛮を改宗させた善行としてだけ考えることはできない。

 アメリカはもっと近くに、苦い思い出をもっているはずである。あの、ロマン溢れる西部開拓史は、先住民を無慈悲に駆逐することがセットではなかったのか。ハリウッド西部劇の多くは悪行をロマンで塗り固めた名作! であった。

 そして、その後の奴隷解放運動・内戦を勝利に導いたのはリンカーン(1809~1865)であり、リンカーンは誇り高き共和党の先祖である。わたしは、外国人である。もとより米国人の本当の気持ちはわからない。しかし、地政学的な見地からであろうとも、全面的にイスラエルを支援するのは理解できない。

 イスラエルがパレスチナを追い込んでいるのは、堂々たる論理の正当性によってではない。たまたま、文明の成果ではあるが、非人間的な殺傷破壊の兵器を圧倒的に保有し駆使しているからである。その行為は文明の所産どころか、野蛮そのものである。インテリであるはずのネタニヤフが、不用意に「文明と野蛮」という言葉を提供したので、改めて少し考えてみたが、いまの世界を主導しているのは、果たして文明なんだろうか。

 おりからバリ・オリンピックが始まった。オリンピックは、戦争を否定し、平和を希求する。多様性を重んじ、差別を排し、人権を尊ぶ―という建前であるが、その実、オリンピックを支えているのは野蛮な精神を文明というペンキで塗り固めた文明国! ではなかろうか。言葉の意味を問い続けねばならない。