筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
日本製鉄と宝山鋼鉄との合弁が解消される。
1972年日中国交正常化以来の、日中協力ビッグプロジェクトである宝山鋼鉄は、1985年に最初の高炉を建設した。
30年ほど前、わたしは50人の労働組合チームをお世話して、北京・上海・西安を5日間で神風旅行(中国側に冷やかされた)した。
上海では、当時高炉建設で意気上がる宝山鋼鉄を訪問、工場見学のあと、宝山鋼鉄総工会の副主席が午餐会を開催してくれた。
上海は非常に道路事情が悪く、主要幹線だろうがなんだろうが、人も車も我先に行き交うので、バスに乗っていてもひやひやしていた。
訪日経験のある副主席が日本人は交通マナーがいいと話を向けるので、わたしは、「こんな話があります。東京の人は正面の信号を見て渡る。大阪の人は横の信号を見て渡る」、一息おいて「上海人は何にも見ない」とジョークを飛ばした。大爆笑、和気あいあいの握手を交わして別れた。
それはともかく、当時はまことに日中友好ムードが高まった時期で、鄧小平氏が、尖閣のような厄介な問題を「後世代の知恵に委ねよう」という言葉をしみじみ味わっていた。
もちろん、30年も時間が過ぎれば雨も降れば風も吹く。あのころの愉快な雰囲気が続かないのは仕方がない。
そうではあるが、後世代の知恵はどうなったんだろう。
論語に「後世畏るべし」とある。後進の者は努力次第で将来どんな人物になるかわからない、という意味の畏るべしなんだが、現実は、まったく単純に後進を恐れるしかないみたいな体たらくだ。いやはや、なんとも——