筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)
論考10編目に至り、自分自身の信念を確かめてみた。40年を超える労働組合役員としてのキャリアと培った運動論は、自分自身の信念に適い、そしてさらなる信念となった。振り返ればそれは、自分はどう生きたいのかという問いに、自分なりの「明かり」を灯すことだった。定年退職は一つの区切りだが、その信念は変わらない。だから、このままでは終われない。
信念の所在
昨年の10月から、ライフビジョンのホームページへ、論考の投稿を始めた。自らの非力に苦しみながら、これまで9編を投稿した。その全体を通底するのは、自分としては、「次代社会の構想と実現のための労働組合運動論の創造」というテーマである。
会社に就職してから退職するまで、労働組合の職場役員に始まり、会社の仕事か労働組合かという選択の岐路もあったが、役員歴は40年を超えた。その経験を重ねるごとに、信念を強くしてきたのは、自分らしさ失わないということと、縁あって出会った労働組合を通じて、社会的に意義のあることに、自分自身を投企したいということだった。
定年退職により、一つの区切りは迎えたが、その信念は、変わらない。
来し方を振り返る
昨年、私が参与をしている財団からの依頼で、私の労働組合でのキャリアを教材として、現役の労組役員に話をする機会をいただいた。限られた時間枠のなかで、何を伝えるかを見定めるために、自分のキャリアを辿ってみた。自分が携わった資料を繰りながら、また、覚え書きのようにしてフェイスブックに投稿した拙文を読み返しながら、文章に綴ってみることにした。これは自己満足以外の何ものでもないが、その作業の一か月あまり、心豊かな時間を過ごすことができた。
40年余り、私は労働組合役員として、何を追い求めて来たのだろうか。それは、12万字ほどの文章となった。その文章に、「働き方‘の’改革という労働組合運動の創造」という、表題をつけた。
思えば、出合い頭のようにして受けた労働組合の職場役員。自分で選択した専従役員だったが、事務方として言われてやる仕事の苦しさ。外部の方との出会いにより、自分の中にあった労働組合への問題意識が、明らかになったこと。組織のリーダーとなり、その職責としての価値は、この組織の問題を克服し、労働組合とその運動を発展させるための行き先を定めることだと。そして、ビジョン・目標を描き戦略を定め、その実践に踏み出した。その間、自分と組織の足らざるを補うために、外に出て、識者に教えを乞うことを厭わなかった。そうやって、運動の端緒を仲間とともに創り出した。
以降、この経験と培った運動論は、自分の信念となった。
自分はどう生きたいのか?
この12万字の文章の序章は、「自分はどう生きたいのか?」から始まる。
何年前だったか忘れたが、ある研修の事務局として信州を訪れたとき、作家井上靖(1907―1991年)の碑に出合った。
碑文には、「潮が満ちて来るやうな そんな充たし方で、私は私の人生を何ものかで充たしたい」とあった。
「本当にそうだなぁ」と、私は、この碑の前で深く感じ入り、それを書き写し、手帳に貼った。大概の人は、この社会にあって勤め人として人生の過半を過ごす。自分は、社会人になって「言われてやる仕事」がほとほと嫌で、「何かで充たされたい。」、「込み上げる何かで充たされたい。」と、切に感じていたのだ。その意味で、私には鬱屈した時期がかなり長くあったように思う。
私をそうさせているものは何なのか、勤め人として「働く」ということはどういうことなのか。私は、そういうことに自分なりの「明かり」を灯してみたいと思って、生きてきたのかもしれない。そしてまた、このような信念は、同時代を生きる働く仲間の信念ではないかとも思えた。
「明かり」の行方
私の充たされない何かは、90年代初頭、まず、「働きがいを高める」というビジョン・目標と、組合員の無関心という問題の克服にむけた「組合員の参加関与機会の増大」という戦略、そして政策として表現された。
「ものから心へ」という、働く仲間が求めるものが変化したという時代認識のもと、働くことを通じて自分自身の人生の満足を、働く仲間とともに実現すること。そして、それは同時に、労働組合の基本機能である、雇用を守り労働条件を維持向上するために、自分たちの職場(会社)を、自分たちで持続可能なものにしていこうとするものであった。
我が企業の収益性は、日本経済の低落と軌を一にするように、91年をピークに低減傾向となる。このような環境下、本質を欠いた短期成果思考の経営政策が横行した。それは現場を混乱させ、働く人の主体性と連帯性を失わせ、結果として生産性を低下させた。
ビジョン・目標、そして戦略を基礎に、私たちの運動は、このような問題の克服を念頭に置き、現場における望ましい働き方としての実務理論にまで踏み込んだ。それは、「働き方の改革」という運動へと昇華した。端的に言えば、従業員の「納得して楽しく働きたい」という信念を、崇高な企業理念に結び付け、企業の持続可能性を確立していくことを、自分たちで明らかにして取り組もうというものだった。
そしてその運動は、自分たちの企業ないし産業が、社会から必要とされ続ける存在として在ることに向けてという運動へ、さらに昇華し、「働き方‘の’改革」として成長した。このように昇華させたことで、我が組織において、地域社会の持続可能性を支える人びとの交流が、多次元で、飛躍的に増大していった。
我が組織は、社会に大きく開かれた。「働く人が、自分の人生を、自分にとって、満足なものにするために…」という初期の運動のスローガンに、「自分らしく、自分だけじゃなく、つながりをもって…」が付け加えられた。
あえて「‘の’」として強調したのは、世間一般に流布する「働き方改革」という勤務態様やオペレーショナルなレベルの取り組みと、一線を画した、次元の違う取り組みであることを意図したからである。
ここまで述べたことは、執行部在任中に関わりを持った産別の流通産業政策にも反映させた。また、執行部退任後に所属した連合では、連合ビジョンの組織分野の政策にも、可能な限り反映させた。しかしまあ、いずれもメインストリームとして扱われることはなかったし、その意味や意義すら基本的に問われることもなかった。加えて、出身組織においては、世代交代が進むとともに、取り組みの形骸化、運動の機運の薄れを、避けることはできなかったようだ。
このままでは終われない
振り返ってみると、自分自身が積み上げてきたものは何だったのだろうか。そこには、自分が納得する結果を見ることができなったという落胆がある。しかし、誰かが言ったのだが、「過程にしか、関われない。」と。そういうことかと、妙に納得したところもある。しかし、人間生きている限り、死ぬまで終わりはないのだから、「このままでは終われない。」という信念は、必然のことである。
どのような立場に在るのかとか、何ができるのか、本当にそれは可能なのかとか、他人はそのことをどう評価するのかとか、そんなことはどうでもよい。自分がやりたいことを、自分でやると決めれば、ことは、結果に向けて動き出すのだから。
まとめ
労働組合の実務をやっている人たちが本気で向き合うことはないだろうが、喧伝される地球の様々な持続可能性の危機は、いつもやってくるものではない。それは、今が、大きな時代の転換点であることを示唆している。そしてそれは、世界を覆う資本主義という社会システムの終わりを告げるものではないのだろうか。であるならば、オルタナティヴな社会構想(社会システム)とは、いかなるものであるべきか。そして、どのようにすることが、その次代社会への変容のプロセスを切り開くことを可能とするのだろうか。または、それ以前になのか、同時になのか、ラディカル(より深い次元で、より根本的な)な民主主義が一人ひとりのものとして体現されてこそ、人類にとって、次代に向けた健全な選択を可能とするのではないのか…。このようなことに係る、私自身が学び、思索するべきところの余地は尽きない。自分の人生で携わってきた労働組合という存在が、歴史的にもそうであったように、社会変革の主体であることに、これからも、私は助力したい。