論 考

選挙が分断に拍車―ではよくない

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 フランス国民議会選挙は、外から見ても実にドラマチックな意表を突く展開であった。選挙自体が面白いものだが、その面白さが見事に展開された。

 選挙は民主主義における代議制度の根幹であり、強権で選挙を捻じ曲げたり、都知事選のN国の動きのような、ユーモアにならない、低質なおちゃらけでは結局民主主義を貶めるだけである。

 フランスの場合は、実に熱のこもった選挙戦で、日本の選挙のような劇場型選挙戦ではなくて、人々が選挙に打ち込んでいる。日本が観客民主主義であればフランスのそれは、まさに参加民主主義(これが当たり前なのだが)である。

 ただし、熱くなればいいわけではない。ふだん政治的無関心なのに突然選挙のときだけ熱くなるのは危ない。選挙は運動競技ではない。記録を競い合ってお仕舞ではない。議会政治が、これから始まるのである。

 だから、突然熱くなって興奮したままで終わるならば、いよいよ本番の政治が動きの取れないものになりかねない。フランスの場合、マクロンの主流派、左派、右派の三頭立て体制になったことは明白である。

 政治巧者を任ずるマクロン氏にすれば、左派と右派の対立を相殺させて、自分の路線を進んでいくという作戦だろう。しかし、なぜ今回の選挙ドラマが発生したのかといえば、マクロン氏のワンマンリーダーシップや、鼻持ちならないエリート主義に対して人々が「ノン」を突き付けたのである。

 このままいけばポピュリズム極右の国民連合RNが一挙に政治の主導権を把握する形勢だった。しかし、フランス独特の決選投票システムを巧に駆使したマクロン派と左派連合が選挙協力に成功して、右翼の台頭を土壇場で抑え込んだ。

 つまり厳密にいえば、右派の台頭を作った人々の意識と選挙結果がずれた。もし、マクロン氏が、してやったりとばかり、選挙前と同様に国政に臨むならば、早い機会にまたまた「ノン」の動きが持ち上がるにちがいない。

 議会が歩むべき正道は、それぞれのセクトが、単にセクトの主張に埋没するのでなく、それぞれの視野から国民的動向を分析して、議会において、各派の合意を形成することである。

 民主主義は、100人100様の意見を前提している。いまのフランス議会でいえば、大きくABCの3つの見識を議論で収斂して、Dという解を導き出すように努力しなければならない。

 つまり、選挙は各セクトが自分こそ一番を競うのだから、拡散の時期である。拡散を議会に持ち込んでしまえば、絶対に合意ができない。だから多数決という便法があるが、1/2の勢力を有する多数派はいないのだから、相互に合意をめざして誠心誠意の議論を重ねるしかない。

 日本では、自民党が議会の多数決を支配する力をもっているが、現実に自民党大批判がおこり、さらには既成政党全体をひっくるめてダメだという声も出る。しかし、自民党の独断横暴な政治がおこなわれるような選挙選択をしたのは国民である。ダメの親元がダメな子どもをダメといって突き放すのは、個別の家族なら可能だとしても、国民と政治家の関係ではやってはならない。それは、社会が千々に乱れていく元凶である。

 なぜ、そんなことになるのか。常日頃、政治的無関心の人々がメジャーだからである。こんな理屈はだれにでもわかる。議会できちんとした議論がおこなわれるのは、たゆまざる人々の政治的関心が基盤である。

 繰り返すが、選挙は拡散、政治は収斂である。不満が蓄積して爆発するような事態を招くのは利口ではない。派手な選挙のフランスも、相対的に地味な日本の選挙も、そこから透けて見えるのは、国民の政治的見識である。