筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
旧優生保護法で強制の不妊手術が憲法違反だという最高裁(戸倉三郎長官)の判決が出た。拍手喝采である。
しかし、どうも居心地がよろしくない。理由ははっきりしている。
本日の社説見出しからみると、朝日「優性施策と国の責任 過ちを直視し、差別に決別を」、読売「強制不妊判決 『時の壁』超え救済命令した司法」、毎日「優生保護法に違憲判決 国は人権侵害認め救済を」という主張から外れている重大な視点があるからだ。
世間において偏見・差別の意識はきわめて牢固としたものがある。もちろん、露骨に発言する人は少ないが、ひそひそレベルでは見過ごせないものがある。
いわゆる国の賠償、救済だけではすまない。しかも、社会的な啓蒙活動では克服できない。それ以上になにか効果的な補法があるのかというと、すぐには(わたしは)思いつかない。
差別や偏見の敵は、露骨なものではない。たとえば、社会がすべて「包摂」して暮らそうというがごとき、わかったような、さっぱりわからない立派な? 言葉の使い方もある。
理屈でいえば、「人間の尊厳」という立派な概念が言葉面だけでしかないのだ。その意義・価値の理解は、どこまでいっても一人ひとりの見識である。