筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
新渡戸稲造(1862~1933)が、散歩歓談中、ベルギー人のド・ラブレー博士に「日本人は宗教がないというが、なんで倫理道徳を教えるのか?」と問われた。また、配偶者は米国人であり彼女にも日本人を理解してもらいたいということから、著作『武士道』が生みだされたというのは有名な話である。
教え子の矢内原忠雄(1893~1961)が、英語で書かれた原文を翻訳したものを岩波文庫で読んだ。矢内原によれば雄渾で見事な英文だそうだが、翻訳もまた雄渾にして流暢、説得力に感心した。
読後40年近く、いまは当時のような爽快感がない。講釈師流の音吐朗々、立て板に水が少なからず鼻についていけない。
竹越与三郎(1865~1950)は、米国(たぶん)で、「武士道は日本人のクリード(信条)にあらず、ごく一部の話であって、日本人は義理と人情でやってきた」と演説した。間違いなく、こちらのほうが現実に近いと思う。
ところで、目下のアメリカでは、トランプがキリスト教福音派を意識しておおいにクリスチャンたる自分を売り込んでいるが、かりにこの人が正真正銘のクリスチャンだとすれば、とてもじゃないが宗教は倫理・道徳の役に立っていない。この30日には、ニューヨーク州裁判所で有罪判決が出された。罪状は、不倫相手に支払った口止め料の不正会計処理であって、帳簿・請求書など34件に及ぶ改ざんが摘発された。
トランプは例によって、自分が魔女狩りの対象になっていると大声疾呼するが、嘘はつき放題、超誇大自己宣伝にまみれていて、とても倫理・道徳を学んだ人とは思えない。
フォイエルバッハ(1804~1872)は、人間が神をつくったのであり、神の名において思考停止を起こすような宗教観を否定したが、神をコケにして好き放題やれというのではなく、神学は本来人間学であるはずだという思想を展開したものであった。トランプのような信者が世間に影響力をもつなんてことを考えなかっただろうか。
いや、実際は大昔から権力を握る連中は、神を自分の権力のためにおおいに利用してきたのである。いやいや、教会権力自体がその典型であった。
日本では、「神も仏もない」という言葉がある。苦痛や辛いことが連続して、救ってくれるはずの神も仏も現れない。一所懸命に努力し忍耐しても報われないという嘆き節である。
しかし、さらに考えれば日本人は、僥倖なんてない。努力し忍耐しても報われないことを十分に知ったうえで、こつこつと生き延びてきたのではないか。それは諦念であるが、諦念に抑え込まれず、なんとか立ち上がろうという心意気があったからこそ、ここまで来たのである。
救いがない事態に閉じ込められているようだが、なんとか活路を見出していく。虚無感が強い日本人といわれるが、その濃霧の向こうに自立精神があるというべきではないだろうか。わたしは、これを絶対元気と名付けている。自分の頭で考えて倫理・道徳を身に着けてきたといいたい。