NO.1563
わたしが大企業に採用されたのは18歳で、61年前の4月1日から出社した。田舎の工業高校へ、工場の人事部長と担当者が来られて面接、話した内容はすっかり忘れたが、5分ほどで決定、紙切れ試験なし。あとで聞くと工場のある近畿地方出身者は試験があったらしい。
社会人になるのだという認識も抱負もまるで持ち合わせないで、のほほんと就職が決まって、布団一組送った数日後、指定された単身寮へ向かった。指定の住所へたどり着いたが、めざす建物がない。だいぶ古い木造の小学校みたいな建物があった。もらったパンフの写真は他の単身寮であった。
出勤すると新入社員向け説明会があり、就業規則が説明され、身上調査みたいなアンケートを記入した。実は、そこで初めて初任給13800円を確認した。採用面接のときにも聞かなかったし、漠然と世間相場より少し上等らしいと思っていた。なにしろ、見たこともない大企業なんである。
1970年代半ば、採用面接で退職金がいくらか質問した新人がいると聞いた。労働条件など聞かずに社員になった自分と比較すると、しっかりしていると感心したが、周囲の若い仲間たちも含めて、「なんたる奴だ」とか、「そんな奴は採用するな」というのが主流であった。
なるほど、新入社員から先輩と並んでバリバリ活躍する人は少ない。おおかたは、まさしく丁稚奉公(もちろん大昔のそれとは違うが)から始めて、一人前の顔をしているわけだから、手柄もなにもないのに、退職金とはなんだ、という風当りが強いのも仕方がない。
そうではあるが、自分が働くのは、しかるべき報酬対価のためであるから、雇われた以上は言われた通りになんでもやりますというのはおかしい。労働条件獲得が目的なんだから、その内容を質問するのは当然の権利である。以上は昔の話なので、いまでは誰でもしっかり質問しているのだろうか。
報道によると、さいきん退職代行業が存在感を示している。どうしても仕事と自分の相性がわるい、おおいに悩んで退職を申し出たら、慰留された。人手不足だから代わりを見つけてくれと求められたり、あるいは、「辞めたらどうなるかわかるか」と恫喝されたなど、辞めたいけれど辞められない人々のためのお助け事業だという。同じ退職代行業に勤める人が、他の退職代行業に辞めたいと依頼してきたというのだから、失礼ながら笑える。いやいや、問題の本質は笑っているような話ではない。
企業には、雇う権利と雇わない権利がある。一方、労働者には働く権利と働かない権利がある。これが労使対等の中身である。しかし、企業の権利はいずれも有効だが、労働者は、自分の都合で働いたり、働かなかったりが容易にできない。労使対等は実は言葉だけで保証されてはいない。
つまり、労使間の雇用契約は対等ではない。あえていえば、労働者には「辞める自由」があるだけだ。ここでいう労使対等は労働者個人と企業の対等であって、個別的労使関係である。これでは具合がよくないので、労働者には労働基本権(働く権利)があり、労働三権(団結権・団体交渉権・団体行動権)によって労使対等を実現していくという建前である。これは団体的労使関係である。団体的労使関係の目的は個別的労使関係が対等になることだ。ただし、組合が組織されていなければ、進むも引くも個人でやるしかない。
雇用問題といえば、人員過剰と人員不足の二面があり、いまは、どちらかといえば後者の雇用問題である。いずれにしても、雇用の主導権を企業が全面的に掌握して行使するならば、労使対等は空証文であるし、労働者が労働基本権の恩恵を受けていないことになる。
すべての労働者が労働組合を組織するのが理想であるが、それに向けて既存の労働組合には、もっと社会的影響力を発揮してもらいたい。かつて、労働者には辞める自由しかないと揶揄したが、退職代行業という隙間ビジネスの登場は、「辞める自由すらなくなった」状態を浮き彫りしている。
労働組合の活動が活発で、社会的発信力が大きければ、非組織労働者においても、もっと当たり前の権利意識が浸透するだろう。ところで、労働組合のある労働者は、「だから、組合をつくらなきゃ」という認識なんであろうか? 退職代行業が生まれる社会は、いったい、健全なんだろうか?
