筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
サルトル(1905~1980)が、一気に作家として世界的地位を獲得したのは小説『嘔吐』(1938)を発表してからである。
主人公のロカンタンは、突然、見るものすべてに吐き気を感ずる。
彼は、いわば平凡すぎる、しかも崩れない(日常の)惰性にあった。だから、見るものすべてに吐き気を感ずるのは崩れないはずの惰性が崩れたのである。
この作品が発表された翌年、世界は第二次世界大戦に突入した。多くの人々にとって、戦争は外から来て、自分の平穏な日常を破壊するのであるが、あの難解な『嘔吐』が大ブームを起こしたのは、知らずしらず、無意識のうちに、人々は自身の内部に戦争を予感していたのではなかろうか。
すべての存在は偶然であるが、にもかかわらず! 人間は自身が自身に問うことのできる意識をもっている。
少なからぬ人々が、孤独に沈潜して思索することの大切さを感じただろう。戦争は思索に沈潜することの反対にある。
釘にとって時間は永遠の現在であるが、人間にとって時間はつねに未来がある。これが実存であり、投企された人間は自身で投企しなければならない。
大戦が終わって1945年10月、サルトルは雑誌『レ・タン・モデルヌ』(現代)を創刊した。彼は、「大戦は無関心と懊悩とのなかに終わった」と記した。
そして、歴史には意味があるのか。目的があるのかという問いに、サルトルは、「歴史はそれをつくる人間の外にあっては抽象的な不動の概念に過ぎず、だから目的があるとかないとかいえない。問題は、目的を知ることではなくて、与えることだ」と記した。
サルトルの足跡をたどると、彼は個人主義に依拠する民主主義の闘いを最後まで貫いたと思われる。
すべての人が同一時間を生きる。純粋な観客はどこにもいない。にもかかわらず、座席からまったく動くつもりがないみたいである。