筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
水俣病犠牲者慰霊式のあとの被災者団体代表との懇談会で、環境省職員が被災者団体の人の発言中にマイクのスイッチを切った事件は、環境省の存在理由を自己否定するものである。新聞各紙は、環境行政の原点を忘れたかと批判する。その通りであるが、これだけではわかるまいから、少し事実経過を記す。
1952年水俣湾周辺で、魚介類の大量斃死、鳥の狂ったような乱舞、猫の狂い死になどの奇態が続発した。56年、新日本窒素の病院長細川一が、手足硬直、絶え間ない震え、うつろな視線、泣きわめく子ども4人を診察したことから、魚介類を大量摂取している家族に奇病が発生していることを知り、研究を進める。しかし、会社のさまざまな妨害にぶつかる。
57年に熊本県水産課が新日本窒素の排水に着目し、排水停止と漁獲禁止に踏み切ろうとしたが、新日本窒素らの後押しで政府は熊本県の介入を許さなかった。研究は進んで、65年に学界では新日本窒素の責任が確定した。
政府が奇病を公害 ! であると認めたのは1968年、それも新日本窒素が不採算になって、(排水の原因の)アセトアルデヒド製造中止を決めたあとであった。新日本窒素が元凶だが、水俣病拡大の原因を作ったのは政府であった。
1972年国連環境会議が大々的に開催された。前年創設したばかりの初代環境庁長官大石武一が、「敗戦後日本は経済再建をめざして邁進してきたが、深刻な環境破壊に直面して、だれのための・なんのための経済成長かについて考えざるをえなかった。それは、人間尊重こそである。」とスピーチした。日本国内では、なにをいまさら白々しいという反発が少なくなかったが、その主張は当然であった。
水俣病(以外の公害も含めて)が大きく拡大して深刻化した最大の政治的原因は、役人の官僚主義と会社優先の経済追求路線である。環境庁(当時)の発足は、人間尊重を根本に掲げて、官僚主義・経済優先の国民不在な役所仕事を克服することにあったはずだ。
おそらく、環境大臣はじめ役人諸君には、このような環境庁創設の精神など念頭にないだろう。環境大臣伊藤氏は、「心からのお詫びし、深く反省する」と低頭したが、例によって形式的かつ儀礼的にして空疎な言葉にしか聞こえない。いまだ、たくさんの人々が裁判を起こさざるをえないことが証明している。政府・与党は、反省だけならサルでもできるという事例があまりにも多い。