週刊RO通信

勉強することについての勉強

NO.1513

 いつごろからか、確かではないが、1970年代後半、自分が30歳に入ったころには、「人間は自分がなろうとするものになる」という言葉を知っていた。格別考えなくても、そんなことは当たり前だ。そう思える人も多いだろうが、この言葉を意識してまとめようとすると簡単ではない。

 いかにも頼りない話であるが、疑問を感じたときや、ちょっとした原稿を書くとき、とつおいつ本を読んだり、資料を調べて、メモをとっている何かの一瞬、これがなろうとするものになる道筋だという思いが閃いて消える。そんな時間は充実した嬉しいひとときである。

 12年間の学校生活を通して、格別さぼることもなかった。しかし、勉強好きでサボらなかったのではなく、部活動の庭球を除けば、とくにやりたいことがなかった。学校の机と家の机を往復する合間に庭球に打ち込んだみたいな生活で、悪さはしなかったが、性根の入らない生徒であった。

 さすがに社会人になると、自前の頭で考えて自前の言葉で発言しなければならない。たまたま数人の仲間と勉強会を始めたのがおおいに刺激になった。資料は、青年向け月刊誌や組合機関紙で、仲間同士が意見交換する。学校時代に、そのような意見交換をやった体験がない。

 しっかりしたリーダーがいるわけではないから、けんけんごうごう中身空っぽで、まったく奇妙な会合なのだが、どなたさまも結構愉快にやった。これが組合支部内の若手活動家の私的サークルとして、少しずつ成長していった。いま思えば、自分自身の成長でもあっただろう。

 組合ではなんといっても、賃金引上げへの気合が十分で、賃金勉強会は数多く開かれたものの、結論は大幅賃上げ・若年層賃金引上げ(年功序列が際立っていた)というだけで、賃金を本質的に考えるとか、職業生涯をいかに生きるべきかとか、いわゆる「労働観」が未成熟なままであった。

 とくに労働時間にかんする関心の薄さは特筆大書しても、なお、言い足りない。これは、賃率意識への無関心でもある。「総賃金÷総労働時間」が賃率で、当然単位時間当たり賃金が大きいほど上等である。残業時間でいくら稼いだと勘定するのだが、単位時間当たり賃金、すなわち自分の仕事の価値について、あまり関心がない。

 有給休暇を取りたがらない人に理由を問うと、「先立つものがないから、休んでも意味がない」と応ずる。こちらは、「カネがなくても時間があるじゃないか」という。カネを稼いで、そのまま余暇に使うのは、いわば自分の時間の過ごし方に知恵がなく、どこかへ稼ぎを奪われているという感覚がない。

 おカネを使わずに時間を活用するなどと抹香臭い話がしたいのではない。投資するか、しないかはともかくとして、自分がこうありたい人生(生き方)を持ち合わせなければ、――猫に小判,勤め人に自由時間――である。ただし、猫は高等遊猫なのかもしれない。

 前述の自由時間は単純に縛りがない時間の意味である。本当の自由時間! なるものは、自分の自由! に支えられた時間である。自分の自由(な人生)を考えて、それに邁進しているのでなければ、縛りのない時間がわんさかあっても、わたしにとっての自由時間ではない。だから余暇≠自由時間である。

 自分がなろうとするものと本当の自由時間論に気づいたのは30代後半だった。当時は日本で初として騒がれたシルバー・ゴールドプラン(人生設計システム)を開発実践かつ驀進中であった。いろんな職場で働く方々が参加して、自分の人生を考え、語り、笑い、共感して過ごされるのを見ていると、これこそが勉強なんだよと、教えていただいている気持ちが高揚した。

 人生半ばにして『思想のドラマトゥルギー』(林達夫・久野収対談)に出会った。勉強大好き人間のお二人が、ライフワークの研究を通して、自分の人生を形成していかれる姿が、おぼろげながらわかった。

 刺激を受けた言葉はたくさんあるが、とりあえず、「詮索の精神」「実証の精神」「これという問題に駆けつけて、掘り起こし、整理する」「自分の問題に見合った理論つくり」「メリット主義はよろしくない」etc.

 チャットGPTを使いこなす大合唱の以前に、自分はペンを手に書物を読む態度を終生変わらぬ習慣としたい。