週刊RO通信

空の巣的平和事情の日本

NO.1511

 「広島ほど平和へのコミットメントを示すのにふさわしい場所はない」。これ、岸田氏の弁だ。G7の首脳らが揃って平和記念資料館を訪れた。被爆者の小倉桂子さんとの対話をし、慰霊碑で献花、黙祷、記念植樹をした。新聞報道の字面は多いが、要点は以上で、首脳らの声は失礼ながら月並みだ。

 首脳らの平和記念資料館訪問は大きなイベントである。これを記事にするのは事実を追いかければよいが、実のところ、それだけでは記事にならない。首脳らは平和祈念資料館で40分過ごした。松井広島市長は、全員神妙な表情だったと語ったそうだが、賑やかにおしゃべりを交わすわけはなかろう。

 マクロン氏は、「広島の犠牲者を記憶する義務を果たし、平和に向けて行動することが私たちの責務だ」と記帳した。平和祈念資料館にふさわしく、あやまちはくり返しませんのレベルで儀礼的な対処である。朝日新聞社説(5/20)は、首脳らがなにを思い、考えたのか肉声を聞きたいと書いたが、右に同じトーンである。

 ゼレンスキー氏が来日してG7に参加した。G7はウクライナへの軍事支援、ロシアに対する制裁強化を押し出している。平和を手にするには戦い取らねばならないというメッセージは明確であり、平和記念資料館訪問のイベントに首脳らが拘り続ける頭脳の隙間があるかどうか。

 イベント主催者岸田氏の頭のなかで、平和と戦争問題はどのような価値の序列を構成しているのか。平和は願望で、戦争は現実という程度のざっぱくな整理? がされているのであれば、冒頭に掲げた岸田氏の言葉は中身を伴わない場当たり的社交的発言でしかない。

 むしろ、あやまちはくりかえしません的平和願望を捨てて、軍事力による平和追求路線を正しい平和主義とするという本音が見える。今回のG7は軍事サミットである。それに向けて、広島を使ったのは違和感がある。

 日本に原爆を投下したのは、太平洋戦争を早期に終わらせ、戦闘によるたくさんの兵士の死傷を止めるためだった。というのはアメリカの理屈である。

 ポツダム宣言(米英中、後にソ連)が、1945年7月26日に出されて、日本政府が受諾を表明したのが8月14日。原爆投下は、広島が8月6日、長崎が8月9日である。政府内で、敗戦を巡って無意味有害なすったもんだがくり返されている間に原爆が投下された。

 しかし、日本軍がアメリカ軍と対等に戦える力はすでにない。それはアメリカは十分に知っていた。戦闘による死傷を減らすという理屈は成り立つが、広島の死者24万人、長崎12万人、36万人もの死者を出したことだけ見ても、人々の死傷を減らす目的であったとは考えにくい。

 それは原子爆弾の威力を確認したいという意図があったろうし、戦後の世界のリーダーシップを自分のものにするための、アメリカ戦略の一環、一大デモンストレーションであったと思われる。

 アメリカの外交は最初から、いわゆる砲艦外交である。トランプが露骨にアメリカ第一主義を唱えたが、歴代大統領はいずれ劣らぬアメリカ第一主義者である。世界を自分たちが期待するように動かしたい。アメリカがチャンピオンの座を降りてはならずというのは、いわばトラウマである。

 そのためには経済力はもちろん、軍事力で他国に劣ってはならない。いまは、プーチンが盛大にバカな戦争を続けているのと、巧みな宣伝力で、アメリカが正義に見えているが、第二次世界大戦以後の78年間、アメリカのゴリ押しが絶えたことはない。

 いまは、G7対ロシア・中国という対立の構造であるが、グローバルサウスといわれる国々の冷静な視線こそが、世界の破局を牽制しているといえる。わが新聞などは、グローバルサウスの国々をG7の側に抱き込めという論調だが、ロシア・中国を黒、G7を白と対置するような考え方では破局に向かってアクセルを踏むようなものだ。

 国連の弱体を嘆く声は多い。その通りであるが、国連が勝手に弱体化したのではない。あえていえば。アメリカ第一主義が国連を骨抜きにしてきた。日本が平和に貢献するためには、平和主義を本気で取り組むこと、国連中心主義に舵を切り直すこと、いわば敗戦直後の思いに帰るべきである。