週刊RO通信

権力に溺れぬ人こそ英雄である

NO.1510

 5月9日モスクワ赤の広場の、第二次世界大戦対独戦勝記念日におけるプーチンの演説は興味を引いた。というのは、ウクライナの人々だけに限らず、世界をかくも大混乱に引き入れた偽英雄の本音が見られたからである。それは、時代を生きる人びとにとっておおいに教訓となる要素を含んでいる。

 プーチン「彼ら(米欧)の目的は、わが国の破壊を達成し、第二次世界大戦の結果を消し去ることだ」。いみじくもプーチン流曲学阿世的改竄派歴史観のボロが出た。第二次世界大戦でソ連がナチに勝利した歴史的事実は消そうにも消せないが、プーチンは敗北すれば、それが消されると論理を組み立てている。自分がロシア内において好き放題に歴史を改竄して、国民向けプロパガンダを駆使しているからこその着想である。本音が出た。

 しかし、ウクライナ(を支える米欧も)は自国領土内で防衛の戦争をしているのであって、ロシアの破壊を企ててはいない。とくにいまはロシアが2014年に併合したウクライナ領土が激しい戦場だが、併合という歴史的事実を無視するから、ロシア国内の戦争という理屈になる。

 また、ウクライナの防衛戦争であっても、それは必然的にプーチンの意図を挫くのだから、わが国の破壊という言い方になる。以前からプーチンがウクライナを虎視眈々狙っており、その集大成として一挙勝利に向けて突進したのだが頑強な抵抗に遭い、勝利どころか敗北がオツムをよぎる。自分が先手を打たなければあり得なかった事態である。

 しかし、この10年ほどの歴史的推移もまた、改竄歴史観をモットーとするプーチンとしては、事実認識が不可能である。自分が招いた事態であるのに、全面的にわが国の破壊を他国が目論んでいるような錯覚にとらわれる。

 戦争なるものの怖さもある。いざ戦争となれば、どちらが先手かとか、どこの戦場でとか、当事者としては念頭になく、とにかく勝利に向けて一直線である。存在するのは、敵か味方か。敵を利することは言葉であっても語らないのだから、戦争の因果関係や正当・不当性などは吹っ飛ぶ。自国が勝利することしか考える必要がないわけだ。

 プーチン「祖国を守る戦いはつねに神聖だった。祖国への愛国心ほど強いものはない」。内容も表現もまったく陳腐であるが、頼られるものは愛国心のみである。権力者だろうがそうでなかろうが、自分自身のアイデンティティに確固たる信念をもてず、あまねく他者を説得できる論理を持ち合わせない場合、もっとも頼りにするのが愛国心である。手っ取り早く、かつ軽薄だ。

 ゼレンスキー氏は、旧ソ連以来、対独戦勝記念日を祝っていたが、その日を「欧州の日」とする法案に署名した。ウクライナが陳腐な愛国心ではなく、デモクラシーの欧州をめざす決意を宣明した。軍事力が劣勢でも、誇り高い思想と精神においてプーチン流ロシアを圧倒している。

 シモーヌ・ヴェイユ(1909~1943)は、次のような優れた指摘をした。いわく、「権力を有することは、個人ができることを越える手段をもつのである。ところが、(権力をもつ人間が)対象を掌握しえない無力さゆえに、(権力の)目的についてのあらゆる考察を斥ける」。

 権力を行使する目的をとことん考えて煮詰める知性も理性もない連中だから、きらびやかな権力に憧れて権力を奪取するが、権力を正しく行使できず、権力それ自体を獲得維持することが目的化する。

 巷間、権力の魔力といわれるが、下世話流に表現すれば、超高性能バイクに跨ってみたものの、ハイレベル・テクニックなし、本質的に、どこへ行くべきかの目的思考力がないので、いざ走り出すと暴走するしかない。

 これはプーチンだけの専売特許ではない。偽英雄プーチンの演技力には及びもつかないが、無思慮に暴走する岸田流も権力の巨大さゆえだ。――どこへ行くのか、走行技術は大丈夫か――

 世界は暴走族に過ぎない偽英雄がなんども破壊を試みたのだが、なんとか持ちこたえてきた。それは、思考と行動を備えた隠れた英雄のおかげである。愛国心などを振り回さず、自分以外のなにものかの支援を期待せず、生を自己の絶えざる創造とすべく、むき出しの運命に直接対峙する偉大な人々、つまり平凡人こそが世界を支え、維持している英雄というべきである。