週刊RO通信

地方選挙の違和感

NO.1507

 統一地方選挙で感じた違和感から少し考えてみる。下手で中身空疎な話を大音声で垂れ流されるので、たびたび、ついつい文句が言いたくなる。ただし、これは政治的というよりも静けさが破られた環境要因によるものだろう。候補者が当選することに一所懸命だということは理解しているつもりだ。

 地方議員はかかりつけ医と似たような存在で、かかりつけ政治家だという見方もあるが、困ったときに地方議員に頼る人は少ない。

 かつてドブ板議員といった。新人候補であれば、当選得票数をはるかに上回る人と面談して靴を履きつぶし選挙に備えるのが常識であった。どうもさっこんの立候補者はノンステップで登場するらしい。当然と言うべきか、スピーチに厚みがない。身近な政治を云々しても空滑りで迫力がない。

 有権者はどうか。新聞記事のトーンでは、人々が誰を選ぶべきかで困惑しているという。ひごろ政治が疎遠であれば、買いたくもない商品をどう選ぶかという話になる。衝動買いをお勧めするわけにはいくまい。

 有権者を消費者扱いしているジャーナリズムのセンスもいただけない。商品購入感覚であれば、カタログを見て選べばそれでお終いだ。しかし、有権者=消費者であるとか、政治的受益者であり続けるならば、かりに投票率が高くなっても政治は絶対に身近にはならないだろう。

 トクヴィル(1805~1859)は、「地方自治は民主主義の小学校」と指摘したが、地方自治も選挙投票で終わらない。人気投票だけで政治が変わると考える人も多くはなかろう。有権者を消費者・受益者扱いしているジャーナリズムも、もちろん当事者も真っ当な政治を手にできる筋合いではない。

 候補者は選ばれたくて一所懸命である。これは認める。かたや有権者が、誰を選ぶかで困惑するほど一所懸命だろうか。そうではなかろう。つまり、候補者と有権者との間には対称的緊張関係がない。これは候補者に同情する視点である。ただし、候補者の一所懸命は、就職活動に一意専心であって、仕事の中身とは全然別物である、という視点も有力だ。

 共同体(国・組織など)をつくるのは、人々が解決すべき問題を共有するからだ。つねに共同体全員の合議をおこなうのは無理だから、代表を選出してその仕事を委ねる。共同体を経営するためには、法をつくったり(立法)、法に基づいた運営(行政)をする仕事ができる。

 代表たる一部の人々は、圧倒的多数の人々から選ばれるという特徴があるが、選ばれたことによって、他の人々との間に優劣の差が発生するのではない。選んだ人々は立法・行政の仕事するメンバ―として委託したのであって、委託した人に非対称、従属する立場を選択したのではない。ところが、選ばれたということが、選んだ人々に対する優越した立場であると錯覚・誤解している政治家が多すぎる。

 過疎地などで議員に挙手する人がいない問題が発生している。これが本来の実体だろう。議員の仕事は本来、労多くして実入りを期待するものでない。過疎地で自分の生計維持に大苦労しているのに、さらなる苦労を背負い込むのは尋常な心理状態では不可能である。もちろん、解決したい問題が多い。しかし、さしたる手柄を立てる妙案も確信もないから、誰でも二の足を踏む。

 議員という権威をもらっても、仕事ができるわけではない。過疎地の町村は役場職員も少ない。人々の声を代弁して役所に伝えるごときは仕事ではない。議員自身がやるしかない。過疎地にこそ地方政治の原点がある。大都市の議員諸氏は、役所職員のがんばりによって、お茶を濁せている。

 わたしが聞く限り、「この厄介な問題をどうしましょうか」という候補者の問いかけは一切ない。あたかも、現状はユートピアであって、さらなる桃源郷をめざすがごとき公約(実は、修飾語で固めた政策のようなもの)である。本気で取り組めば、そうそう長くはやれない仕事だという真実を知らない(あるいは無視する)から歯の浮くような言葉の羅列になる。

 「候補者が自らご挨拶にうかがっております」という陳腐な言葉をしばしば聞いた。自分でやらずに誰がやるのか。無意識のうちに特別の存在だという思い上がりがありはしないか。昔は、頭の下げ方ひとつで、候補者の家族までもが批判をぶつけられた。ただいまは結構な時代なのだろうか。